我々は、体という存在を実に長い間軽んじてきた。しかし、20世紀になってようやく、
我々人間は体そのものの存在に目を向け、体の重要性に気付くことになった。
「肉体は一つの大きな理性である」(ニーチェ)
「私とは、私の体のことである」(メルロ=ポンティ)
といった考え方から、人々は自分自身の身体に目を向けるようになっていった。
つまり、人間は食べ物を得る為、戦う為の体だけではなく、ただ動くだけの身体、
すなわちスポーツをする体に価値を見出すようになったのである。
スポーツの基本は、「遊び」である。フランスの思想家ロジェ・カイヨウが、「遊び」を
アゴン(速さ、強さ、技術等を競う競技)アレア(運に任せる遊び)
ミミクリ(返信する擬態の遊び)イリンクス(身体と心を混乱に陥れる眩暈)の四つに分類した。
1988年、神戸製鋼ラグビーのキャプテンに就任した平尾誠二は、
「ラグビーは遊び」
と提言。1995年、大リーガーとなった野茂も、
「アメリカのベースボールを楽しみたい」
と語った。
「遊び」という言葉を聞くと、プラスイメージよりも、むしろマイナスイメージの方が
強いのは何故なんだろうか。
何年か前に、水泳協会が千葉すずの行動や言動に対してバッシングするという
ニュースがあった。勝ちにこだわり過ぎて、純粋に「遊ぶ」ことができない、「遊び」
に慣れていない日本人の姿が顕著に映し出された出来事だったように思える。
千葉すずは、ただ純粋に「水泳を楽しみたい」だけだったのだ。
何故こうも「遊び」という言葉に我々は反発心を感じるのか。
「遊び」の由来を見ていくことにする。
「遊び」の由来は、天武天皇の「八色の姓」の位の一つ「朝臣」(あそん)であるとい
う説があるそうだ。つまり、「遊び」とは、そうした「よき人」の身分にあって初めて許さ
れるべき行動であり、「遊んでいる」とは、「朝臣でいられる、いいご身分」なのである。
「朝臣」しか許されなかった「遊び」を一般庶民が堂々と「遊ぶ」ためには、
「道」(精神修養・教育効果など)や「精神」という概念のタテマエが必要であった。
プレイ(遊び)以上にそういったものを重んじてきたのは、「遊び」を隠したがる日本の
庶民文化の伝統的タテマエと、明治という近代国家の指針が二重に影響を及ぼした
結果といえる。現に、相撲における力士の勝ち星や連勝記録が話題になったが明治
の頃からだ。
そう言えば、 最近気になるコメントを発見した。映画「バトルロワイヤル」の深作欣司
監督がある雑誌のインタビューにおいて、こんなことを口にしていたのである。
― 「映画は人生を棒に振ってもいい遊び」―
どうやら、「遊び」は、決して身体を動かすというスポーツの世界だけに留まらないようだ。
「遊び」という言葉には、日々の生活を活性化させるキーワードが隠されているようである。
このホームページを作るに当たって、私は「遊び」をコンセプトにしてみた。
私自身、「遊び」が何であるのかという答えをまだ出すことが出来ない。
ただ一つ言えることは、
「遊び」とは、非実用的で、それ自身の為に追及される肉体的、精神的活動のことであ
り、あくまでも「遊び」は限りなく広がる自由空間である。
人生のあらゆる場面に、「遊び」というスパイスを取り入れられることで、
きっと「人生」は美味しくなるのだと思う。
今回、「ちょっと知的な集団」がそれぞれの「遊び」心を取り入れ、それぞれが自由に
作品を手掛けてくれた。「ちょっと知的な集団」は今後も増殖していく予定である。
「ちょっと知的な集団」が、「21世紀の『遊び』を提唱」できれば・・・と思う。
人生「遊ばず」して何がある。
中途半端に「遊ぶ」ならば、人生は所詮「ごっこ」で終わる。


