本稿を草するために文献を読み漁つてゐたら、いい文章が見つかつたので、ちょっと長いがまずこれを引用しよう。
《私は土曜日の午後だけ、保育所の子どもたちの面倒をみています。そこで強く感じるのは、保育所が親の都合からばかりその必要性を言われていて、預けられる側の子どもの立場が考えられているか、ということです。
幼児に集団生活を経験させるのは必要なことです。けれども、それには年齢に応じた妥当な時間があるはずです。幼稚園が三、四時間で終わるのは、それが集団生活の限度だからです。それに、家に帰れば母親が待っていてくれる、そういう前提の上の集団生活だからこそ意義があるのです。
それが朝七時半から五時過ぎまで、一日十時間の集団生活となると、幼児には生理的に相当きつくはないでしょうか。朝は眠いのに起こされる、昼は眠りたいのに、ほかの子がじゃまをする、一人遊びをしたくても集団からはぬけられない、いじめっ子の恐怖から精いっぱい身を守る。これが短時間ならともかく、長時間では子どもの身になればたいへんなことです。
(中略)
彼らを見ていると、粉骨砕身、夕方までがんばって、母親の働くことに協力してくれているという感じです。けれども彼らが、家を建てるためとか、貯金を増やしたいから、などという理由で一役買わされているのだったら、それは二、三年先にのばせないだろうかと思います。迎えにきた母親が、とびついてくるわが子をみて、単純に喜んでいていいものでしょうか。それはその子の精いっぱいの抗議かもしれないのです。》
保育所に預ける親のエゴをこれほど的確に言ひ現した文章はない。昭和五十年五月の朝日新聞家庭欄の「ひととき」といふ投書欄に掲載された投稿である。今は朝日文庫『おんなの暦−「ひととき」30年』に収録されてゐる。筆者は四十一歳の主婦。
昭和五十年といふと今から二十七年前。その当時の朝日は「アカイ アカイ アサヒハアカイ」なんていはれてゐたけど、まだ健全な部分も残つてゐたらしい。今は間違つてもこんな投稿は載せない。載せたら担当者のクビが飛ぶ。
二十七年前は《朝七時半から五時過ぎまで、一日十時間の集団生活》だつたけれども、保育時間は伸びる一方で、いまは朝七時から夜は七時、十時、十二時までといふ時代。いたいけな幼児を十四、五時間も保育園の中に閉じ込める。これはまさしく児童虐待ではないのか?
《幼稚園が三、四時間で終わるのは、それが集団生活の限度》だから、といふ常識の声は、「働く女性のために延長保育を!24時間保育を!」といふフェミニストの大合唱の前にかき消され、保育園は24時間エンドレスのコンビニ保育・ベビーホテル化の道を突き進んでゐる。
子供の権利条約を叫ぶ連中は長時間保育といふ児童虐待をなぜ告発しないのか?
二十七年前と様変りしたのが、女性が子供を保育園に預けて働く理由だ。《家を建てるためとか、貯金を増やしたいから》働くといふのは今や少数派に属する。昨今の主流は「育児がイヤだから働く」派と、「家にゐるのがイヤだから働く」派である。私はかうしたタイプの働く女性を育児放棄型女性就労者と名付けたい。
悪名高いベビーホテルには二ヶ月三ヶ月といふ長期滞留の子供もたくさんゐて、一日一時間だけ会ひにくるといふ母親も珍しくない。育児放棄型女性就労者の理想も、たまに家族が訪ねる老人ホーム型保育園にあるのだらう。
育児放棄型女性就労者の決まり文句はかうだ。
「帰宅してから集中的に可愛がつた方が密度の濃い愛情を注げる」。
先の文章の最後をもう一度読んでもらひたい。
《迎えにきた母親が、とびついてくるわが子をみて、単純に喜んでいていいものでしょうか。それはその子の精いっぱいの抗議かもしれないのです》
母親のエゴイズムに対するなんと痛烈な批評ではないか。長時間保育といふ児童虐待を受けてゐる子供たちが《みていろ、いまに大きくなつたら》と心ひそかに復讐の芽を育ててゐると考へない方がをかしいのだ。
二十年前、保育園に迎へに行つた自分にとびついてきた可愛いあの子。あんなに可愛いかつたあの子がどうしてあのやうな恐ろしいことを。保育園に預けつ放しにさへしなければ、あんな子供にはならなかつた・・・・・。さうした念を抱いてゐる親がどれだけ存在することか。しかし誰もさうしたことを語らうとしない。子供の手によつてあの世に送られた親に口が無いのは分かるけれど。
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