自民党から共産党・極左まで擦り寄るフェモクラット
埼玉県知事選、坂東真理子の利用価値



 どうやら都市部の知事選挙ではフェミタリアンが出馬するのが慣例になつてしまつたらしい。東京都知事選と神奈川知事選で樋口恵子と田嶋陽子がコケて、ひと安心と思つてゐたら、今度は埼玉。しかもゴリゴリのフェモクラットの登場ときた。

<BR> フェモクラットとはフェミニストとテクノクラートの合体語。フェミニズム思想に染まつた官僚をかう呼ぶが、総理府と内閣府でフェミニズム行政の中枢ポストを歴任してきた坂東真理子女史は筋金入りのフェモクラットといへよう。

 ジェンダー・フリーといふ言葉を日本中に蔓延させたのもこの人、地方自治体にジェンダー・フリー条例をつくれつくれとけしかけてきたのもこの人、保育園の待機児童は三十万人といふウソを垂れ流してきたのもこの人、小泉首相にこれらのウソを信じ込ませたのもこの人・・・要するに、フェミニズム行政の統括者にしてジェンダー・フリー革命のアジテイターの役回りを演じてきたのが坂東女史なのだ。

 平成十三年、省庁再編で誕生した内閣府・男女共同参画局の初代局長に就任。自社連立政権ができたのち、社会党やさきがけの女性議員やフェモクラットたちの間で、強力なフェミニズム官庁とフェミニズム基本法をつくらうといふ動きが活発化し、それは総理大臣直轄の男女共同参画会議及び男女共同参画局の設置、男女共同参画社会基本法の制定といふ形で実現した。フェミニズム行政機構は一気に肥大化し、そのトップに君臨したのが坂東氏だつた。

 男女共同参画会議と、その事務局である男女共同参画局はフェミニストの巣窟と呼ぶにふさはしい。男女共同参画会議の基本問題影響調査会、苦情処理・監視専門調査会等の専門会議は、ジェンダー・フリー革命の謀議の場と化してゐる。この謀略会議を取り仕切つてきたのが坂東真理子・男女共同参画局長である。

 昭和四十四年に総理府に入つた彼女は、青少年対策室本部、婦人問題担当室、内閣広報室参事官、統計局消費統計課長などを歴任し、平成六年に総理府の初代男女共同参画室長に就任。平成七年四月から十年三月まで埼玉県副知事をつとめ、平成十三年一月から内閣府の男女共同参画局長のポストにあつた。

 坂東氏の出馬をめぐるドタバタ劇を振り返つてみると、坂東氏の擁立に一番熱心だつたのは民主党だつた。フェミニストで、元副知事としての知名度もある。しかし民主党の上田清司・衆院議員が出馬に動いたこともあつて坂東氏は民主党の申し出を断はつた。

 自民党も坂東女史に色気をみせ、自民党本部と官邸は最後まで坂東候補に固執した。しかし自民党埼玉県連の大勢は「逮捕された市川桃子と副知事時代に親しすぎた」といふ理由で反対し、無難な嶋津昭氏に落ち着いた。 自民党は市川桃子との一件がなければ坂東氏を擁立したはずだ。選挙に勝てればフェミニスト知事だらうがジェンダー・フリー知事だらうが知つた事じゃない。自民党はいつのまにかさういふ政党に成り下がつてしまつた。

 共産党も、体裁をとりつくろふために独自候補を立てたものの、坂東には未練たらたら。極左グループはもちろん坂東の選対本部にもぐり込んでゐる。自民党から共産党・極左までフェモクラットに擦り寄る図は、今の政治にとつてフェミニストがどれほど利用価値が高いかを象徴してゐる。

 そもそも、土屋知事が副知事に坂東を抜擢したのも、自分の人気取りのためだつた。二期目の知事選挙で女性票をあてこんで女性副知事を公約に掲げ、選挙後、坂東真理子を迎へ入れたのだ。

 土屋知事はフェミニズム問題に非常に熱心だつた。特に夫婦別姓問題には力を入れ、埼玉県庁では全国の自治体に先駆けて職員の旧姓使用を認めたほどだ。これは市川桃子(長女)、土屋品子(次女、衆議院議員)といふ二人の娘の影響もあるだらう。市川桃子は地元ではもつぱら結婚前の「土屋桃子」を使用し、夫婦別姓を実践してゐた。市川桃子は知事の威光と女であることを最大限に利用して利権をあさる利権屋フェミで、父親が副知事に抜擢したフェミニストと親密の度を深めていつた。

 坂東副知事は土屋親子の庇護よろしきを得てフェミニズム行政に腕を振るつた。その最大のものが埼玉県男女共同参画条例制定である。坂東副知事は男女共同参画条例研究会を発足させ、これが条例づくりの第一歩となり、ジェンダーフリー思想に彩られた埼玉県男女共同参画推進条例は平成十二年に成立した。

 条例が成立したのは副知事を退任した後だつたが、坂東副知事の置き土産である埼玉県男女共同参画推進条例は、その後各地で続々と制定された過激なジェンダーフリー条例のモデルになつたことはよく知られてゐる。

 自民党政権下におけるフェモクラットは「ヌエ」とでも表現できやうか。かれらは、表向きは「男女仲良く共同参画」と穏健改革派を装ふが、陰ではサヨク・フェミニストの本性をむき出しにしてジェンダー・フリーを煽つてゐる。

 ジェンダー・フリー行政が各方面から批判を浴びるようになつても、彼女たちはなかなかシッポをつかませない。たとへば、ことし四月の衆議院・青少年問題に関する特別委員会における坂東・男女共同参画局長の答弁を読んでみよう。「男らしさ・女らしさ」について、当局の見解を尋ねられてた時の答へ。

《男らしさ、女らしさにつきまして、私は女らしい女性が好きだとか、男らしい男性が好きだとか、自分はもっと女らしくなりたいとか、男らしくするように努めようとか、あるいは子供を女らしく、男らしく育てたいというようなことは、もう個人の好み、美意識、哲学等に属する部分でございますので、それは国あるいは行政が関与すべきではないと思います。》
《しかし、男らしさ、女らしさが、男はこうあるべきだ、あるいは女はこういうふうに振る舞うものだというふうに決めつけを生んで、それによって個人の能力、個性、多様性の発揮に支障を生じたり、あるいはまた差別的な取り扱い、人権の侵害を生じたりすれば、それは、男女共同参画社会の形成に支障を生じるということで強く規制していかなければならないと思います。》

 言質をとられまいと細心の注意を払ひながら、ジェンダー・フリーの核心だけは死守する。これが自民党政権下に生きるヌエ的フェモクラットの処世術である。

 埼玉県副知事時代には、自民党県議との間で、次のやうな「少子化論争」を繰り広げてゐる。

       ◆ ◆ ◆

・県議 少子化は民族存亡にかかはる問題。それなのにあまり大きな声でその対策を唱へる人も少ない。男女共同参画型のみが先行することは片肺飛行と同じである。

・坂東副知事 仕事と家事との二重負担によつて女性が未婚・晩婚となり、また働く女性が出産をためらふことにもつながつてをります。従来の夫婦の性別役割分担に基づく、男は仕事、女は家庭といふのが、男が仕事の部分は変はらないまま、女は仕事も家庭もと、家事も育児も全部といふことになつてをりますと、少子化につながつてゐるわけではないかと思はれます。男女共同参画社会づくりは、男性も女性も職業生活と家庭生活を両立することにより出生率の回復をもたらし、将来の生産人口の減少に歯止めをかけることになり得るものと認識してをります。

・県議 出生率を高めるといふ答へがない。埼玉県としてはこれだけの子供が欲しいんだ、お宅の市では何人、お宅の町では何人、そこまでやらないと今の少子化問題は解決しない。

・坂東副知事 出産や育児については個人の選択の尊重といふことがやはり第一になるかと思ひますが、子供を持ちたい方が安心して子供を産み育て、そして子供自身が健全に成長していくやうな環境づくり、子育てを家庭だけ、特に母親だけに押しつけないで、地域全体、社会全体で支へていくやうなシステムをつくりあげていくことが、結果として少子化を防止することになると思はれます。

・県議 産む産まないは個人の選択といふ言葉。これは戦後教育の結果でせうが、大変残念。坂東副知事は私の子供のやうな年かもしれませんが、やはり現代つ子である。これでは日本の国はもたない。産めよ増やせよといふのは今の国が求めてゐるのである。

・坂東副知事 あなたのところは五人産みなさい、十人産みなさいと指導することはなかなか難しい。そこは是非、子供を育てるのは、本当に人生最大の喜びでございますから、その喜びは味はへる人には十分エンジョイしてくださいと、できない人は、その部分をみんなで支へ合ひませうと、さういつた形で、全体として若い方たち、中年の方も含めてですが、もつと子供を持つて、社会を明るく支へていきたいといふ気分になれるやうな社会をつくつていくことが大事なのではないかなと思ひます。

◆ ◆ ◆

 県議は、県として出生率を高めてゆきたいといふ確答を引き出さうとしたが、坂東副知事は巧妙なノラクラ答弁でかはした。

 そもそも、この二人の議論などかみ合ふわけがないのだ。坂東氏は、@産む産まないは女の勝手A少子化大歓迎、といふ思想の持ち主なのだから。

 坂東副知事の言つた「出産や育児は個人の選択の尊重」は、言ひ換へれば「産む産まないは女の勝手」といふこと。さらにいへば「中絶するもしないも女の自由」といふこと。英語でいふと「リプロダクト・ライツ」。この舌をかみさうなフェミナチ用語の普及につとめてきたのは内閣府・男女共同参画局である。何をかいはんやである。

 少子化に関しても、「少子化大歓迎」が坂東氏の本音であることは明白である。彼女は著書の中で少子化問題についてこんな風に記してゐる。

《(少子化の現代は)女性にとつていい時代である。兄弟が多い時代は女の子は教育も受けさせてもらえず嫁に出され、夫の両親に‘’仕え‘’なければならなかったが、子供が少なくなると、女の子とてかけがえのない存在となる。・・・・親と同居、隣居し、子供の世話は親に協力してもらうというのが女性が仕事を続ける秘訣である。・・・・離婚しても親と協力して子供を育て、幸せに過ごせるので、無理に結婚を続ける必要はない。・・・》(菅原眞理子著『日本型ゆとり社会とはなにか』)

 「少子化は女性にとつていい時代」と明言していることに注目したい。そして離婚の奨励。この本の別のところでは、発展途上国の人口抑制策として、「出生率低下に成功した日本」の経験と知識を活用すべきといふ実に有益な提言もなさつてゐる。 「少子化は女性にとつていい時代」「日本は出生率低下に成功した」と考へる人が、産めよ増やせよ政策に賛同しようはずがない。

 フェモクラットたちは、少子化問題に話が及ぶと、「働く女性が安心して生める環境づくりが先」と話をすり替へる。彼女たちは少子化大歓迎の本音を押し隠して各省庁で少子化問題対策に従事してゐる。そして、あげくのはてに、「産む産まないは女の勝手」と宣言した少子化社会対策基本法までつくつてしまつた。

 埼玉県では、フェミナチ勢力の策動によつて、県下の男子高校・女子高校が廃止される危機に瀕した。県民の署名活動でなんとか廃止の危機を脱したものの、あれは埼玉県男女共同参画推進条例の「苦情処理機関」を利用したフェミナチ勢力による策略だつた。

 フェモクラット知事が誕生したら、フェミナチ勢力は増殖し、ジェンダー・フリー行政が猛威を振ひ始めるだらう。埼玉県民に果たしてそこまでの自覚があるのだらうか。


 本稿を草するために文献を読み漁つてゐたら、いい文章が見つかつたので、ちょっと長いがまずこれを引用しよう。

《私は土曜日の午後だけ、保育所の子どもたちの面倒をみています。そこで強く感じるのは、保育所が親の都合からばかりその必要性を言われていて、預けられる側の子どもの立場が考えられているか、ということです。

 幼児に集団生活を経験させるのは必要なことです。けれども、それには年齢に応じた妥当な時間があるはずです。幼稚園が三、四時間で終わるのは、それが集団生活の限度だからです。それに、家に帰れば母親が待っていてくれる、そういう前提の上の集団生活だからこそ意義があるのです。

 それが朝七時半から五時過ぎまで、一日十時間の集団生活となると、幼児には生理的に相当きつくはないでしょうか。朝は眠いのに起こされる、昼は眠りたいのに、ほかの子がじゃまをする、一人遊びをしたくても集団からはぬけられない、いじめっ子の恐怖から精いっぱい身を守る。これが短時間ならともかく、長時間では子どもの身になればたいへんなことです。
 (中略)
 彼らを見ていると、粉骨砕身、夕方までがんばって、母親の働くことに協力してくれているという感じです。けれども彼らが、家を建てるためとか、貯金を増やしたいから、などという理由で一役買わされているのだったら、それは二、三年先にのばせないだろうかと思います。迎えにきた母親が、とびついてくるわが子をみて、単純に喜んでいていいものでしょうか。それはその子の精いっぱいの抗議かもしれないのです。》

 保育所に預ける親のエゴをこれほど的確に言ひ現した文章はない。昭和五十年五月の朝日新聞家庭欄の「ひととき」といふ投書欄に掲載された投稿である。今は朝日文庫『おんなの暦−「ひととき」30年』に収録されてゐる。筆者は四十一歳の主婦。

 昭和五十年といふと今から二十七年前。その当時の朝日は「アカイ アカイ アサヒハアカイ」なんていはれてゐたけど、まだ健全な部分も残つてゐたらしい。今は間違つてもこんな投稿は載せない。載せたら担当者のクビが飛ぶ。

 二十七年前は《朝七時半から五時過ぎまで、一日十時間の集団生活》だつたけれども、保育時間は伸びる一方で、いまは朝七時から夜は七時、十時、十二時までといふ時代。いたいけな幼児を十四、五時間も保育園の中に閉じ込める。これはまさしく児童虐待ではないのか? 
 《幼稚園が三、四時間で終わるのは、それが集団生活の限度》だから、といふ常識の声は、「働く女性のために延長保育を!24時間保育を!」といふフェミニストの大合唱の前にかき消され、保育園は24時間エンドレスのコンビニ保育・ベビーホテル化の道を突き進んでゐる。

 子供の権利条約を叫ぶ連中は長時間保育といふ児童虐待をなぜ告発しないのか?

 二十七年前と様変りしたのが、女性が子供を保育園に預けて働く理由だ。《家を建てるためとか、貯金を増やしたいから》働くといふのは今や少数派に属する。昨今の主流は「育児がイヤだから働く」派と、「家にゐるのがイヤだから働く」派である。私はかうしたタイプの働く女性を育児放棄型女性就労者と名付けたい。

 悪名高いベビーホテルには二ヶ月三ヶ月といふ長期滞留の子供もたくさんゐて、一日一時間だけ会ひにくるといふ母親も珍しくない。育児放棄型女性就労者の理想も、たまに家族が訪ねる老人ホーム型保育園にあるのだらう。

 育児放棄型女性就労者の決まり文句はかうだ。
「帰宅してから集中的に可愛がつた方が密度の濃い愛情を注げる」。

 先の文章の最後をもう一度読んでもらひたい。
《迎えにきた母親が、とびついてくるわが子をみて、単純に喜んでいていいものでしょうか。それはその子の精いっぱいの抗議かもしれないのです》 

 母親のエゴイズムに対するなんと痛烈な批評ではないか。長時間保育といふ児童虐待を受けてゐる子供たちが《みていろ、いまに大きくなつたら》と心ひそかに復讐の芽を育ててゐると考へない方がをかしいのだ。

 二十年前、保育園に迎へに行つた自分にとびついてきた可愛いあの子。あんなに可愛いかつたあの子がどうしてあのやうな恐ろしいことを。保育園に預けつ放しにさへしなければ、あんな子供にはならなかつた・・・・・。さうした念を抱いてゐる親がどれだけ存在することか。しかし誰もさうしたことを語らうとしない。子供の手によつてあの世に送られた親に口が無いのは分かるけれど。


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