序  論

記紀を調べずに日本歴史は判るか。
わが国の古代史の場合、大和朝廷(あるいは天皇家)の始まった時期や、その経緯は非常に重要な問題となります。

誤解のないように、お断りしておきますが、戦前の古代史のように天皇家の歴史が、即日本歴史のすべてである。とか天皇家の歴史だけが重要だ。と言っているのではありません。
 邪馬台国の起源のほうが重要だ、と考える人もいてよいでしょう。五十万年前の旧石器人の存在や、白亜紀の恐竜の存在も重要でしょう。

 しかし天皇家の始まりが、わが国古代での大きい節目であると推測する人々も多いのです。当然、そのいきさつやその正確な時期を知りたいと考えている人々も多いわけです。
 しかし我が古代史学界は、それらの期待には残念ながら答えていません。。

て、天皇家の成り立ちを研究する重要な手がかりは、天皇家に古くから伝えられている伝承である、とだれしも考えられるでしょう。
その天皇家の伝承を記録した、と伝えられているのが『日本書記』と『古事記』ですから。まずこの研究から入るのが、専門学者でなくとも一般人でもわかる平明な道筋でしょう。
 ところが『日本書紀』や『古事記』には歴史資料としての価値はない、としてこの両書を研究して天皇家の成り立ちを調べようとする動きは、戦後ほとんどありませんでした。
 その理由は周知のように「わが国には四世紀ごろに始めて文字が伝来した。したがって記録術のない時代の記事は、後世の創作であって事実ではない」という考えです。
非科学的な憶説
四世紀ごろに始めて文字が伝来した。それ以前に記録術はなかった」という説は、どこから出たのかも分からない、根拠のない憶説。いわば出所不明、根拠皆無のデマ同然の虚妄の説ですが、この虚妄の説を基として『日本書紀』『古事記』の両書を切り捨てるという考えが、科学的、実証的な歴史学であると考えられて来たのです。

この説は戦前にも一部にはあったのですが。歴史学者の大部分、いや国民の大部分がこの説を信じるようになったのは、占領軍が強力にこの説を推進したからです。
当時、占領軍は出版物はおろか私信まで検閲した時代ですから、これに反論する学者が出なかったのも仕方がありません。
しかし占領が終わり、占領軍の検閲もなくなり、言論の自由が保証されても、この説を再検討してみようとする動きは見えません。

あまりのひどさに、私も見過ごすことはできなくて、昭和五十二年に『古代史学に対する疑問』という小著を刊行して、その憶説にはまったく根拠のないことを指摘いたしました。

ですから現在では「四世紀以前には文字はなかった」と主張する歴史学者はいないでしょう。しかし一般の方々にはまだ「四世紀以前には文字はなかった」と信じている方も多いのではないでしょうか。
占領軍の介入
さて『日本書紀』『古事記』を歴史資料としての価値はない、と言い出したのは戦後のことで、戦前には日本の古代を研究する歴史資料として最重要視されていました。
それが、どうして一変したのか、と申しますと。当時の占領軍が『日本書紀』『古事記』の記事を否定しよう、とする政策をもっていたからです。
当時の事情を知らない若い人のなかには。日本の歴史について日本人より知識があったと思えない占領軍が、日本の歴史にくちばしを挟むとは信じられない、という方も多いようですから。当時の事情を簡単に振り返っておきましょう

昭和二十年の八月十五日に戦争は終わったわけですが。それにともなって文部省は九月二十日に、戦争遂行に協力するような教材を削除するよう指令を出しました。
これは文部省が自主的に、平和目的の教育に転換したわけです。
しかし十月には、それでは不十分だと占領軍の「民間情報教育局」から指令がありました。そのなかで「修身」「地理」と、ともに「日本歴史」の授業停止と、教科書の回収があったわけです。
これには日本側の文部省や教育関係者も大変なショックを受けました。

しかし歴史授業や地理授業の停止命令はやり過ぎと思ったのでしょう。「民間情報教育局」は文部省に新しい教科書の作成を命令してきました。
当時の教科書は国定教科書の時代で、文部省が直接、教科書を編纂していましたから。図書監修官、豊田武氏(のち東北大学教授、文学博士)が執筆にあたったわけですが。「民間情報教育局」と豊田氏は激しく対立しました。
占領軍側は『日本書紀』『古事記』は事実でない、考古学の成果や『魏志倭人伝』等の中国に残されている史料を基として書き直せ、と命令し。
それに対して豊田氏は『魏志倭人伝』等の中国側史料は断片的すぎるし、また地理記事等は日本の状況とはかけ離れており、日本に関した正確な知識を当時の中国人がもっていたとは考えられない。考古学は参考資料としては利用できるが、これだけでは日本歴史を構築できない、と主張して何度命令されても従わなかったのです。
豊田氏は「学童には間違ったことを教えてはならない」という固い信念の持ち主であったそうですから、占領軍の命令であっても、信念をまげて妥協することはできなかったのでしょう。
豊田博士の解任
結局、豊田氏は解任されてしまうのですが。困った文部省は省外の歴史学者に依頼して教科書を編纂し刊行するわけです。このときに出た歴史教科書『くにのあゆみ』や『日本の歴史』を見ますと『日本書紀』や『古事記』の古い部分はほとんど無視されています。

 『くにのあゆみ』には「神日本磐余彦天皇(神武天皇)』という名前は出てきますが、
「そのころ最も有力なものが、この(大和)盆地からおこって、だんだん日本を一つにまとめたのであります。その大事な仕事をおはじめになり、畝傍山のふもとの橿原の宮で、最初に天皇の位におつきになった方が神日本磐余彦天皇といわれています。」とあります。

しかし『日本書紀』や『古事記』には、そのようなことを言っていません。
天皇家が大和の地から起こった、というようなことを言ったのは、戦前では津田左右吉博士だけでしょう。
また「民間情報教育局」が、豊田武氏と対立したとき「日本に文字が始めて入ったのは四世紀である。従って『日本書紀』等の古い部分は大和朝廷の創作である。」と主張した理論的支柱も、津田博士の学説です。

津田左右吉博士の学説
津田博士は戦後は大変有名になりましたが。戦前は変わった説をもつ学者と、一部の人々に知られている程度の学者でした。
博士は戦前、右翼の攻撃をうけ、司法から起訴される、という弾圧を受けられたことは、よく知られていますが。それにより世間的に名前が知られた、という面もあるわけです。
もちろんそれで学説を支持する人が増えたわけではありません。

戦後、一躍有名になり「古代史学の神様」扱いされるようになったわけですが。それは当時の占領軍の歴史教育介入への理論的支柱となったからです。

そのように比較的無名の学者の説をとりあげた点から考えますと、占領軍は歴史学の調査も相当綿密にしていたのでしょう。
しかし四世紀以前の日本には文字はなかった。ということは現在の歴史学者や国語学者でも証明できないのですから、当時の占領軍にできるわけはありません。
すなわち裏付けをとってから津田説を信じたのではなく。津田説が占領軍に都合がよかったから信じたわけでしょう。

て『記紀』を用いなくとも、別の資料すなわち「民間情報教育局」が推奨した『魏志倭人伝』や『考古学資料』で「日本古代史」を構築できるのであれば、それでもかまわない、とも言えます。
歴史学者がそのようなことを言うのであれば困りますが、一般国民レベルでいえば、古代史など大筋さえ間違いなければ、細部はあまりこだわる必要がない、というのが大多数でしょう。

しかし大筋で誤りがないでしょうか。
考古学でなければできない、分からないという分野もあります。一万年前の縄文時代、五十万年前の旧石器時代、白亜紀の恐竜時代は考古学に任せるしかありません。
これらの時代は「日本国の歴史」「日本人の歴史」に入るのか。という点では異論も出ようかと思われますが、これらは日本列島から発掘されるわけですから、「日本列島の歴史」として、研究されるのは誰も反対されないでしょう。
また多少、間違いがあっても、それもお愛嬌。幼い学問ですから咎め立てする人もいないでしょう。

しかし二千年ばかり前の歴史となりますと、残念ながら考古学ばかりにお任せするわけに行きません。幻のような邪馬台国が発掘されないのは仕方がないとしても。存在がはっきりしている大和朝廷の起源さえ戦後五十年たっても判らないのです。


それでは
『魏志倭人伝』等の中国側史料で日本の歴史は判るでしょうか
占領軍の「民間情報教育局」はこの点についても相当調べていたと思われます。といっても『魏志倭人伝』等を直接調べたわけではないでしょう。
これらを調べたのであれば、豊田武博士と同様に、これでは日本列島のことは判らない、と判断せざるを得なかったでしょう。
すなわち日本の学説を調査したのでしょう。
そして、これらの学説が「科学的、実証的」な歴史学と、占領軍の「民間情報教育局」は考えたのでしょう。また戦後の日本社会も、この学者達が主張する「日本古代史観」を真実の歴史と信じさせられてきたわけです。


こで問題になるのが、はたしてこれらの学説が「科学的、実証的」な学問であるか、どうかです。

周知のようにこれらの学問は明治時代の「白鳥庫吉博士」と「内藤湖南博士」の論争から始まった、としてよいでしょう。
それ以前にも例えば江戸時代の「本居宣長」や「新井白石」などの説もあるわけですが。本居宣長や新井白石の説が、科学的実証的かというようなことを、検討しても仕方がないでしょうから、「白鳥・内藤」以降の説を見てみましょう。

「白鳥庫吉博士」は東京帝国大学東洋史学の教授で、わが国の近代史学の基礎を築いた一人、といわれます。「内藤湖南博士」は朝日新聞の記者から京都帝国大学の東洋史学教授に転じられ、有名という点では白鳥博士以上の学者です。
両者共に東洋史学の大家であり、したがって初期の「邪馬台国論争」に参戦した人々は東洋史学の学者が多かったようです。後には考古学者や左翼系学者の人々も参加され、戦後は国史(日本史)学出身の学者も、多く参加されています。
 
さて「白鳥・内藤」以降の説が、科学的、実証的であったか。という問題ですが。残念ながら歴史学としては、まったくの見当違いであったと言わざるをえないでしょう。
それが間違えた原因は幾つか考えられますが。根本的には朝鮮半島の古代史について、実証的な検討を欠いたために生じた間違いであったと考えられます。


たとえば有名な白鳥博士の『倭女王卑弥呼考』のなかには
(邪馬台国が衰退した原因の)「一は西晋末より五胡中国に侵寇したる結果として、女王国の依頼せし楽浪帯方の二郡滅亡せしこと、即ち是れなり。」……中略……「韓国当時の状態を顧るに、楽浪帯方二郡の滅亡するや、高句麗北方より南下して其故地を略し、更に進んで三韓を併呑せんず勢なり。是に於いて従来緩慢なりし韓族は、はじめて強固なる国家を組織する必要を感ずると同時に、尚ほその中には東方倭国の応援を得て、自国の独立を維持せんと図るものありき。神功皇后の征韓は此大勢に駕せしかば、容易に効果を収めたるものなるべく、必ずしも之を皇国の勢力強大なりしのみに帰すべからず。云々」とあります。

この白鳥博士の論文『倭女王卑弥呼考』は、「東洋史の大家であった博士が東アジアの古代史を鳥瞰した雄大な構想のもとに論述された大論文であり。これによりわが国の古代史は始めて科学的実証的な歴史学となった。」などと紹介されていることがありますが、それはこの文あたりを評しているのでしょう。

さて白鳥博士説の要点を述べておきますと、
一、西晋末に楽浪帯方二郡は、高句麗に滅ぼされた。
二、楽浪帯方二郡を後ろ楯としていた北九州の『邪馬台国』は、後ろ楯がなくなって急速に弱体化した。その機を逃さず大和朝廷は九州を平定し、日本列島を統一した。
三、大和朝廷はその勢いをかって、韓諸国の要請に応じて神功皇后は朝鮮半島へ出兵して成功をおさめた。
ということでしょう。


この考えは、戦後になって、たいへん信用されることになりました。
例えば昭和二十一年十二月に刊行された、国定歴史教科書『日本の歴史』には,『大和朝廷の成立』として。
「およそ西暦三・四世紀の頃にいたって、さしも雄大な版図をほこった漢民族も、北方遊牧民族に圧迫され、支那周辺の諸民族は、それぞれ国家統一へと向かった。その風潮に相応ずるが如く、わが国においても、従来から進行してきた国家統一の気運が、一段とすすんだのである。……中略……北九州は、大陸との往来に最も便宜な地位を占めているため、古代においては、大和地方と並んで文化の中心をなしていたので、大和朝廷の国家統一事業のすすんだのちも、大陸の文化と政治背景をたのみとして容易に服属に肯んじなかった。しかるに漢末に北方民族が興つて漢人の勢力を北方から駆逐して、朝鮮半島の北部に扶余族の高句麗が興り、南部には新羅・百済の二国が国を建てた頃、やうやく大和朝廷の勢力のもとに服した。ここにいたって、当時日本民族が居住していた区域は、ほとんど統一された。」

とあります。ここではさすがに神功皇后云々は消えていますが、それ以外は白鳥庫吉博士の古代東洋史観の通りです。


この歴史教科書に、白鳥博士の説が採用された経緯は、私は知りません。
しかし憶測してみますと。津田左右吉博士は白鳥博士のお弟子さんです。津田博士が白鳥博士から学んだ東洋史の知識を足場として、日本史に参入したのが『津田史学』です。
大正年間に刊行された『古事記及日本書紀の研究』『神代史の研究』昭和になって出された『日本上代史研究』等が『津田史学』と言われていますが。これらの説の東洋史的大局観には「白鳥東洋史論」があります。
それらから考えますとこの『日本の歴史』の記述は、白鳥博士の考えを津田左右吉博士の論文を通じて、採り入れたのでしょう。

これは占領軍の監視下に作られた教科書ですが。占領が終わった後も、周知のように、このような東アジア歴史観を背景として、「邪馬台国論争」が行われ、「邪馬台国ブーム」が発生したのは、周知の通りです。また「大和朝廷は四世紀に始まった」と現在でも考えている学者もいるようですが。その考えの源はこの白鳥博士の『倭女王卑弥呼考』に発するわけです。
この他に根拠とされるものはありません。


さて白鳥庫吉博士の『倭女王卑弥呼考』に戻ります。
この時期に旧満州の南部にいた「高句麗」が南下して朝鮮半島北部にあった「楽浪、帯方」二郡を奪い取るわけですが、それが影響して大和朝廷の日本列島統一ができるなど、つじつまがあうでしょうか。

楽浪帯方二郡が高句麗に奪われるのは、四世紀の初頭です。その後、朝鮮半島南部にあった「馬韓五十余国、弁韓・辰韓并せて二十四国」(魏志韓伝)は「百済」と「新羅」の二国にまとまっていくわけです。
その経緯については、記録が空白となっていてよく分かりませんが。原因は高句麗の脅威だけであった、というような単純なものではあり得ません。

しかしその後、朝鮮半島は、「高句麗」「百済」「新羅」の三カ国鼎立時代となり。三つ巴の争いが続くわけですが。その間に「高句麗」が優勢となる時期もあります。しかし朝鮮半島南端まで征服して、そこに基地を設けたことなどありませんから。高句麗が日本列島まで兵を送るとか、倭国に軍事的圧力をかけることは不可能です。
従って、日本統一に高句麗が直接かかわったことはあるわけはありません。

ですから問題は、白鳥博士が主張されるように当時の北九州に「楽浪、帯方」に支えてもらっている小国群があり。楽浪帯方が滅亡したとたん、支えを失ったこれらの小国群は滅亡する運命にあったか、という点であります。


白鳥博士がこのようなことを思いついた原因は、『魏志倭人伝』の終わり近くに。
「其の八年(247)太守王 @官に到る。倭女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎らし、難升米に拝假せしめ、檄を為りて之を告喩す。」
とか「政等、檄を以て壱与を告喩す。」
という記事があるからでしょう。それ以外にそのようなことを思いつきそうな記事はありません。
さて檄とは辞書には「めしぶみ、一尺二寸の木に書いて使者に持たせた文書。」とか「ふれ、さとしぶみ。廻状」とあります。

当時の魏国の国内とか、魏の出先機関である帯方郡の統治下にある諸族には、このように「檄を為りて之を告喩す。」という行政命令が行われていたのでしょう。これに背けば当然死刑とか流刑とかが待っているわけですから。効果はあったでしょう。
しかし当時の北九州は、そのような状況であったと考えられましょうか。北九州の小国群は帯方郡の衛星国であったのでしょうか。
また北九州の小国群のみでなく、その対立国であった狗奴国の男王卑弥弓呼らも帯方郡の衛星国であったのでしょうか。

そのようなことは、あり得ません。楽浪帯方が北九州を衛星国状態にするには、まず朝鮮半島南部の「馬韓五十余国、辰韓、弁韓并二十四国」を衛星国にしておかなければ不可能です。
周知のように、「楽浪郡」とは現在の平壌であり。「帯方郡」とは現在のソウルです。当時の航海能力では直接、日本列島へ直行する能力はなかったのです。
『魏志倭人伝』にも帯方郡から倭国へ行くには、海岸に沿って南へ下り、また海岸に沿って東行し狗邪韓国(現在の釜山の近く)に来ます。そこから海を渡って対馬につきます。また海を渡って壱岐につきます。さらにまた海を渡って松浦に到るわけです。

あるいは魏国の軍船はもっと優秀だったのだろう、と考えられる方もいるかも知れませんが。かりに優秀であったとしても、朝鮮半島南部の海岸に根拠地を持たねば、どうにもならないのです。(因みに、元寇の役には、元軍は朝鮮半島南岸の合浦に根拠地をおき、対馬を占領し、ついで壱岐を占領し、北九州へ侵寇してきています。)


それでは当時の朝鮮半島南部の諸国は、楽浪帯方の衛星国となっていたのでしょうか。
そのようなことは、あり得ません。中国の歴史書には韓国の前身である「箕子朝鮮」が西周時代の初頭に建国された時からの、一貫した記録があります。

邪馬台国問題のように、謎の多い問題を解いて行くには、確実なことから消して、謎の部分を狭めておく必要があります。
中国側の歴史書では、韓国に関した記録には確実なものが多いのです。
それは当たり前でしょう。韓国は「箕子朝鮮」のはじめから、中国の地続きの隣国であったのです。
倭国は朝鮮半島を経由して、さらに大海の向こう側にある国です。韓国に関した情報が、倭国に関した情報より確度が低いというようなことはあり得ません。
『魏志倭人伝』等の倭国に関した文献が一等資料(誰がその様な事を、どのような理由で言い出したのか知りませんが)であるならば、『魏志韓伝』等の韓国に関した文献も当然一等資料 または超一等資料でしょう。

 さて『韓国の歴史』に戻りますが、韓国が楽浪帯方の衛星国でなかったことは歴然として、誰にも間違いようがありません


しかし白鳥博士らの説は、『魏志韓伝』に記載されている「馬韓五十余国、辰韓、弁韓并二十四国」の小国群は、楽浪郡帯方郡の「衛星国」のような状態であった、としなければツジツマが合わないでしょう。

たとえば「邪馬台国」の卑弥呼女王が「楽浪、帯方」に依存していた、としましょう。女王から救援を求められたときには、「楽浪、帯方」は軍隊を日本列島まで送らねばならないわけです。
軍隊を送る力もないものに依存しても、無駄な話ですから最初から依存するわけはありません。
ですから邪馬台国から救援要請があったとき、衛星国に救援を命じるか。楽浪、帯方から魏の軍隊を送るか、しなければならないわけです。その場合でも「馬韓五十余国、辰韓、弁韓并二十四国」の小国群はその輸送係を勤めるのが普通でしょう。
最低限、かれらの同意が必要でしょう。軍隊を日本列島まで送るには、朝鮮半島南部の国々が反対していては送れるわけはありません。

しかし「馬韓五十余国、辰韓、弁韓并二十四国」が、楽浪帯方の衛星国でなかった、ことは疑う余地はありません。
すなわち、白鳥庫吉博士らの説はもともと根拠のない幻想に過ぎないのです。博士が『魏志倭人伝』を読むときと同じ、いやその半分でも丁寧に『魏志韓伝』を読んでおれば、『白鳥庫吉説』のような憶説が生まれることはなかったでしょう。
勿論、それに対抗する『内藤湖南説』も生まれることは無かったわけです。

それでは魏の使者『張政』らが倭国へきた、という記事はどのような事実を示すのでしょうか。
『魏志倭人伝』の記事から考えますと、魏の正始八年(247)に魏の使者『張政』らが檄(一尺二寸の木に書いたさとしぶみ)をもって倭国にきたのでしょう。
張政はその檄を難升米らに読み聞かせ、倭人の通訳はそれを倭国語に通訳したでしょう。倭人達はそれをうやうやしく承ったでしょう。
更に、時の倭国王『壱與』は部下二十人に命じて張政を丁重に送り返したでしょう。
こういう事実があったことは間違いないと考えられます。

しかし魏は、倭国まで軍隊を送る能力はなかったのですから、張政の派遣は卑弥呼女王らの軍事力の強化になるわけはありません。従って楽浪帯方郡が滅びても、それが「邪馬台国」の弱体化につながることもありません。
倭人が使者を招いた真意は、軍事力や政権の強化にあったのではなく。別のところにあったに違いありません。その点は『魏志倭人伝』や『魏志韓伝』等を検討すれば、分かります。

しかし倭人が魏の使者を招いた真意は、中国側の記録だけでは分かりません。
倭国の事情と突き合わせて調べなければ判らないわけですが、倭国側の事情は『日本書紀』らを調べなければ分かりません。従って『日本書紀』を無視していては、何百年たっても、見当もつかないでしょう。


さて、白鳥庫吉博士の憶説は、始めから見当違いですが。不思議なことには、激しい論争の相手である「内藤湖南博士」からも、その点についての指摘も批判もないのです。
内藤博士のみではなく、その後の『邪馬台国論争』でも、戦後の『邪馬台国論争』でも、反論批判はありません。

それでは「津田左右吉博士」はどのように考えていたのでしょうか。
博士が戦前の著書を改訂し、まとめたものが戦後『日本古典の研究』となって出版されていますので、そのなかの「第一篇、第二章、我々の民族とシナ人及び韓人との交渉」を見てみましょう。
「(魏志韓伝によると)魏の時代、即ち半島の西北部に楽浪帯方の二郡があった時代には、其の南部は馬韓、辰韓、弁韓の三集団に分かれていて、馬韓には五十四国、辰弁二韓各々十二国あったという。百済(伯済)は此の馬韓の一国たるに過ぎなかった。一国といっても、馬韓に五十四国もあるという話と「大国万余家小国数千家」という記事とから推測すれば、如何に大国と見ても万余家の一部落に過ぎなかったろう。」
とあります。

博士は「馬韓五十余国、弁韓・辰韓併せて二十四国」を楽浪帯方の衛星国とも見ずに、「部落の集まり」とイメージしていたのです。
未開人の部落の集まりだから、魏国の軍隊の通過を邪魔することもなく。倭人の往来も邪魔できない。と考えていたのでしょう。

「万余家」の国を部落と見るのも随分、ぞんざいな考えで。「部落」とは普通、数家から数十家ていどでしょう
一家あたりの人口を仮に五人とすれば、万家とは五万人となります。
現代の日本の「町」や「村」クラスでも人口五万を抱える巨大な町村は、全国でも稀でしょう。「市」となりますと人口五万は小さい市ですが、「市制度」が発足した明治時代は県庁所在地の市でもその程度でした。
国にせよ部落にせよ時代によりその規模は変わっていますが。『魏志』に出てくる三世紀の時代では、「馬韓五十余国、総て十余万戸。弁韓・辰韓并せて二十四国、総て四・五万戸」(魏志韓伝)は相当な大国です。中国本土を除けば、東アジアではこれを上回る大国は指で数えるほどしかないでしょう。
津田博士の考えは、途方もない見当違いと言はねばなりません。いや見当違いというよりも、韓国の状況については、何も考えていなかったのが実情でしょう。


おそらく西洋史の場合には、ここまで、うかつな説は出てこなかったでしょう。東洋史の場合には、特に韓国に関しては、このようにぞんざいに扱われたのです。
これは白鳥庫吉博士や津田左右吉博士らのみでなく、反対派の内藤湖南博士やその学派からも、異論が出ていないのですから。個人的な資質によるものではなく、当時の風潮によるものでしょう。

それが『邪馬台国問題』の解決を妨げた根本的な原因でしょう。


歴史的な大論争と伝えられる『邪馬台国論争』が始まった年。すなわち白鳥庫吉博士が『倭女王卑弥呼考』を発表し、内藤湖南博士が『卑弥呼考』を発表した年は、明治四十三年です。
この年は、悪名高い日韓併合があった年です。当時の国情が『邪馬台国論争』に影響したことは推測に難くありません。
当時日露戦争に勝ってから、日本は冷静に大局を見るとか、少数派に耳を傾ける謙虚さを失って、高飛車に物事を決め付ける傾向が強くなっていたのでしょう。

当時の事情を一瞥してみましょう。
三十七・八年戦役とも言われるように、明治三十七・八年に日露戦争がありました。
この戦争は後から見れば、親日家であったルーズベルト大統領の好意的仲介があればこそ、国力を費い果たす直前に勝利者として講和を結べたわけで、ぎりぎりの講和であったわけです。

しかし実情を知らされていない国民は、賠償金もなく領土の割譲も少ない講和に反対したわけです。当時のオピニオンリーダーである、東京帝国大学教授戸水寛人博士らの「七博士」は講和条約に反対して廃棄を唱えました。またほとんどの新聞雑誌は政府の軟弱外交を攻撃しました。
それに煽られた群衆は東京を始めとして、全国で暴動をおこしたのです。
そのような国内状況が「日韓併合」に影響したのは間違いありません。米国を始め戦後も発言力を残していたロシヤや、列強の了解はとりましたが、肝心の韓国人の気持ちを無視して「日韓併合」は行われたのです。

この状況が「古代史研究」にも影響したのでしょう。『邪馬台国論争』には、楽浪帯方二郡と倭国との通行ばかりが論じられ。朝鮮半島南部については殆ど考慮に入っていません。
肝心の朝鮮半島南部の状況が分からねば、倭人が楽浪帯方へ使者を送った事情や、魏国が倭国まで使者を送った事情は分かるわけはありません。

韓国の歴史を、もう少し丁寧に検討しておれば、『邪馬台国論争』などは発生しなかったでしょう。


それでは古代の朝鮮半島南部の状況はどのようなものであったのでしょうか。
『魏志韓伝』や『史記朝鮮列伝』から考えれば、紀元前二世紀の始めに、「箕子朝鮮王準」は中国の燕からの亡命者衛満に遼東の国土を奪われ、朝鮮半島に脱出してくるわけです。
それが朝鮮半島南部に建てたのが『古代韓国』です。この下に建てられたのが「馬韓五十余国、弁韓・辰韓併せて二十四国」です。
この古代韓国は、最初から相当進んだ国であったことは間違いありません。ただ中国に比べますと遅れていたのです。

中国の文化を「早熟の文化」と呼ぶ学者がありますが。中国はその初期の「西周」「春秋」「戦国」時代に、多くの面で驚くほど発達しているのです。特に軍事については「春秋戦国時代」は常に戦争が絶えない時代でしたから飛躍的に進みました。また「春秋に義戦なし」という言葉があるように、勝つために、領土を獲得するために、道義を無視した手段を選ばぬ戦争に熟達していたのです。

箕子朝鮮は中国からの亡命者「衛満」に国土を奪われるのですが。これは懇願されたから亡命を受け入れたわけで、油断を見透かして国土を奪うのは「恩を仇で返す、だまし討ち」と朝鮮側では考えますが。
「衛満」からすれば「これも兵法、兵法を知らずに負けるのは、知らぬほうが悪い」と考え方が違うわけです。
箕氏朝鮮側では道義とか信義というような甘い考えがあったに対して、衛満側ではそのような甘えを許さぬ厳しい態度であった、といえます。

このように苦い経験を味わっていますから。朝鮮半島南部に移遷してきた始めから、二度と国土を奪われまいとする強い意志や国策をもっていたのは間違いありません。

この『箕氏韓国』は四世紀の初頭まで続いたのでしょう。四世紀の初期に滅亡しますが。その宗主国の滅亡が「馬韓五十余国、弁韓・辰韓併せて二十四国」体制が崩壊して、馬韓と新羅に収斂して行く原因であろう、と思われます。
高句麗の南下はその誘因であったわけです。


戦後、占領軍は『日本書紀』を主資料とする国史学(日本史学)を、愛国主義、侵略主義を推進した学派として皇国史観と呼び、「戦犯」扱いしたわけです。しかし「日本の歴史を教えるな」とは言えませんから、それに代替する歴史学として、『魏志倭人伝』らに基づく東洋史学を推奨したのです。

国史学が愛国主義を鼓吹したことに違いありませんが。
しかし「日韓併合」や「満州国独立」に歴史的正当性があるようなことを、主張したのは東洋史学ですから。侵略主義を推進したのは東洋史学のほうが、むしろ大でしょう。

また「科学的、実証的」という立場から見ますと、当時の国史学は「非科学的、非実証的」な面も少なくありませんでした。点数をつければ七〇点か六〇点でしょう。
占領軍の「民間情報教育局」を論破できなかった点を考えれば、二〇点ほど減点しなければならないでしょうから、五〇点か四〇点ぐらいしか差し上げられません。
しかし、東洋史学のほうはどうでしょう。朝鮮半島の歴史を無視した杜撰な空想と、日本書紀の「神功皇后」の記事を結びつけて、大和朝廷の日本統一は四世紀だなどと主張してきたのですから。これは点数のつけようもありません。強いて採点すれば零点でしょう。


占領軍も「『日本書紀』には、非科学的な記述があるから、科学的に検討しなおせ」と命令しておれば。おそらく数年後には相当正しい『日本史』を構築していたでしょう。
国史学(日本史学)の水準は、それほど低くなかったと思われます。

だいたい我が国の学問は、明治以降、先進国に追いつくのを目標にしてきましたが、多くの分野で先進国と同等かそれに近いレベルに達しているのです。自国の歴史についての研究に限って、幼稚な段階で満足していた、というようなことは、あるわけがありません。

ただ盲点のような箇所は幾つかあったのは事実です。その一つは「文字の問題」であり。もう一つは「天皇家の起源の問題」です。
なかでも「天孫降臨」についてはその不合理さに気づかない学者はいなかったでしょう。しかし「天皇は神聖にして侵すべからず」の時代ですから、掘り下げた研究はなかったわけです。

占領軍の「民間情報教育局」に、そこを突かれたそうですが。「この点が弱点だ」と教えた日本人がいたのでしょう。
もちろん日本の国史学者も、それは重々承知していましたから。そこを研究しなおせ、と命令しておけばよいものを。『日本書紀』の一切を否定しようとして。『津田学説』や『魏志倭人伝』を推奨したために、現在のような、科学的実証的と言いながら、実際には科学や実証とは正反対の、わけのわからない古代史に曲がってしまったわけです。

しかし五十年前の占領政策をいまさら恨んでも仕方がありません。占領が終わった後も永年にわたって見直そうとしなかった日本人の怠慢を反省しなければならないでしょう。


「眼光紙背に徹す」とか「行間を読む」という言葉がありますが。「白鳥・内藤」両博士や、津田左右吉博士のは、行間や紙背に勝手に書き込んで、それを読み出す手法です。

例えば津田博士は(邪馬台の所在については、それをツクシの一地方とするのと、皇都の地であったヤマトとするのと、二つの説があるが、魏志の記載を正しく解釈する限り、それがツクシの一国であることには、何等の疑いが無い。)『日本古典の研究』上、二十頁
と述べておられますが、『魏志倭人伝』の原文には、そのような解釈のできる記載はありません。それは白鳥庫吉博士や津田左右吉博士が、勝手に行間に書き込んだものを解釈するからそうなるわけです。
『魏志倭人伝』は同時代記録だから一等資料だ、といわれますが。同時代記録の原文ではなく、明治以降の日本の学者が書き込んだものを、めぐって北九州だ、大和だと論争してきたわけです。

『日本書紀』にせよ『魏志倭人伝』にせよ、不合理な記事が多い歴史書ですから。その謎を解くために、いろいろと仮説推論を試みられるのは当然ですが。
少し気をつければ最初から誤りと判っている仮説。例えば朝鮮半島南部の「馬韓・弁韓・辰韓」の諸国を部落の集まりと見るような仮説を、いくら組み立てても、時間の浪費でしょう。

だいたい朝鮮半島の歴史を無視して構築した東洋史(東アジア史)など、近代史学と言えるでしょうか。
本来なれば、敗戦後真っ先に見直さなければならなかった、のがこの説でしょう。それが占領軍の介入のおかげで、生き延びただけではなく。なにか科学的実証的に証明されているかのように、幻想されてきたのが、我が国の古代史学です。
実際にはこれらの説には、科学的・実証的な考えなど部分的にもありません。もし有ると主張される方がいるとすれば、具体的にどの点が科学的か、ご教示頂きたいものです。


白鳥庫吉博士は東京帝国大学の教授。内藤湖南博士は京都帝国大学の教授。津田左右吉博士は早稲田大学の教授。それぞれ歴史学の大家といわれてきたわけですが。名声の高さとそれに反した内容の低さ、その落差の大きさには驚かされます。
東洋史学と一口に言ってもその内容は多岐にわたるのでしょうが、この『魏志倭人伝』に出てくる三世紀の研究については、はなはだレベルの低いものでした。それが一時占領軍の後押しがあったとはいえ、これだけ長く続いたとは解せない人も多いでしょう。

憶測するに、国史学の主立った方々は、国を滅ぼした責任の一端は自分達にあると、自責の念にかられていたのでないでしょうか。そのために戦後は、殆ど反論されなかったのでしょう。
それも津田学説や東洋史学を長続きさせた、原因の一つでないでしょうか。


さてそれでは、『日本書紀』から真実の日本歴史はどのように構築できるのか。という反問があろうかと思いますのでその点については次回から述べてみようと思います。

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