『神武東征』の原事実と 大和朝廷がルーツを発見できなかった原因(下)


       紀国と鄭  


 さて、東方の、すなわち山東地方に対する鄭莊公の戦略は、他地方に対するのと、ほぼ同じです。
 この地方の有力国、齊国を、宗家筋にあたる「紀国」にけしかけました。
『春秋左氏伝』桓公五年(BC707年)の経文に「夏、齊侯・鄭伯、紀ニ如ク」とあり、伝文に「夏、齊侯・鄭伯、紀ニ朝シ、以テ之ヲ襲ハント欲ス。紀人、之ヲ知ル」とあります。

 十年ばかり前から、齊侯が鄭伯の子分のように、宋国攻めや許国攻めに、お供してまわった理由はこれです。
この山東地方での姜姓諸国の宗家は、紀国でありました。紀は姜姓諸国の宗家という立場のみでなく、西周王朝時代は、この地方の方伯だったのでしょう。ちょうど中原地方での、申国と同じような立場であったと考えられます。
 齊は、それに対して大変な不満を持っていました。その立場は、本来は齊がすわる場所であったものを横奪りされた、と怨んでいたのです。

 前章の『天照大神』でも述べましが、周が殷帝国を打倒して西周王朝を開いた時、最も功績があったのは太公望呂尚(記紀神話ではスサノオノ命)です。
呂尚はその功績に対して、山東地方全体(記紀では出雲国)を貰えるものと思っていました。しかし周は、山東地方を幾つにも分割して、その内の一つを呂尚に与えたのです。それは西周王朝下では、最も大きい面積と人口をもつ豊かな国ではありましたが、呂尚にとっては甚だ不満でした。その上に、周は山東地方を束ねる方伯、山東諸国の棟梁として、生まれたばかりの嬰児である初代紀侯(記紀ではニニギノ命)を、下向させたのです。
 これは周の武王が、呂尚を恐れてその力を制限するための対策でありましたが、西周王朝時代を通じて、齊は大変な不満と怨念を抱いていました。

 東周王朝時代に入って、中原の姜姓諸国、「申」「呂」や「許」が鄭から苛められているのを見ても、同情する気にはなれませんでした。彼らは西周王朝時代を通じて「紀」を沿海地方での姜姓諸国の棟梁と奉り、齊をその属国扱いして低く見てきたのです。
 鄭莊公は、その事情を知って「オレが応援してやるから、機会を見つけて宗家の座を奪い取れ」と齊を煽動していたのでしょう。

 すなわちこの年、桓公五年の夏、齊侯と鄭伯は、精鋭の供廻りを揃えて「御宗家様の御機嫌伺いに参りました」と紀城へ参朝しました。
 現在の山東省寿光県です。『水経注』巨洋水篇に「寿光県東南三里。春秋時、紀国ノ地。城内ニ台有リ、俗ニ紀台城ト曰ウ」という記事がありますから、小高い丘を囲んで城があったのでしょう。

 「齊侯・鄭伯、紀ニ朝シ以テ之ヲ襲ハント欲ス」城内に入り込めば勝ちだ、紀侯を捕らえるなり殺すなりすれば、国を奪い取れる、という計画だったのでしょう。
 しかし計画は狂いました。「紀人、之ヲ知ル」といいますから、企みは完全に察知されていたわけです。下手に騒げば齊侯・鄭伯以下、皆殺しになるだけという状況だったのでしょう。スゴスゴと退出しました。悪知恵にかけては当代随一の鄭莊公が、歯が立たなかったのです。

 魯の伯姫が紀国に嫁がれたのは、隠公二年すなわちBC721年です。仮にその翌年に紀侯が生まれていたとして、この桓公五年(BC707年)には、十四才です。
 『黄帝伝承原型』に「生マレテ神霊、弱ニシテ能ク言イ幼ニシテ徇斉、長ジテ敦敏、成リテ聡明ナリ」と伝えられるのは、このようなところから出たのでしょう。

 続いて同年の『春秋左氏伝』経文に「冬、州公、曹ニ如ク。」伝文に「冬、淳于公、曹ニ如ク。其ノ国ノ危キヲ度リテ、遂ニ復ラズ。」とあります。
 州国(淳于国)は紀国の附庸国でありました。齊侯らは、宗主国の紀国を襲おうとして失敗したために、末端の附庸国から奪って行こう、と作戦を変えたわけです。州公は身の危険を感じて逃げ出し、曹国へ行ったのです。


 さてその間に、中原地方では桓王が鄭伯を罷免しました。伝文に「王、鄭伯ノ政ヲ奪ウ。鄭伯、朝セズ」とあります。
「秋、王、諸侯ヲ以テ鄭ヲ伐ツ。鄭伯、之ヲ禦グ。王、中軍ト為リ、カク公林父、右軍ニ將タリ。蔡人・衛人、焉ニ屬ス。周公黒肩、左軍ニ將タリ。陳人、焉ニ屬ス」
 これから考えますと、王はこの頃ようやく周王室直属軍の指揮権を、鄭伯から奪い返したのでしょう。

 「鄭ノ子元、左拒ヲ為シ以テ蔡人・衛人ニ當リ、右拒ヲ為シ以テ陳人ニ當ラント請イテ曰ク『陳亂レ、民、鬪心有ルコト莫シ。若シ先ズ之ヲ犯サバ、必ズ奔ラン。王ノ卒、之ヲ顧ミレバ、必ズ亂レ、蔡・衛枝エズ、固ヨリ將ニ先ズ奔ラントス。既ニシテ王ノ卒ニ萃ラバ、以テ事ヲ集ス可シ』ト。之ニ從ウ」

 「曼伯、右拒ト為リ、祭仲足、左拒ト為リ、原繁・高渠彌、中軍ヲ以テ公ヲ奉ジ、魚麗ノ陳ヲ為シ偏ヲ先ニシ伍ヲ後ニシ、伍承ケテ彌縫ス。繻葛ニ戦ハントス。二拒ニ命ジテ曰ク『ハタ動イテ鼓テ』ト。蔡・衛・陳皆奔ル。王ノ卒亂ル。鄭ノ師合シテ以テ之ヲ攻ム。王ノ卒大イニ敗ル。祝セン、王ヲ射テ肩ニ中ツ。王モ亦能ク軍ス。祝セン、之ヲ從ハント請ウ。公曰ク『君子ハ多ク人ヲ上グヲ欲セズ。況ヤ敢テ天子ヲ陵ガンヤ。苟モ自ラ救ハントテ也。社稷隕ツルコト無クンバ多ナリ』ト。夜、鄭伯、祭足ヲシテ王ヲ勞リ、且ツ左右ヲ問ハシム」
とあります。


すなわち「鄭ノ子元、左拒ヲ為シ以テ蔡人・衛人ニ當リ、右拒ヲ為シ以テ陳人ニ當ラント請イテ曰ク『陳亂レ、民、鬪心有ルコト莫シ。若シ先ズ之ヲ犯サバ、必ズ奔ラン」と言うのですから、『陳』兵に闘志が無いことを「鄭ノ子元」が見破って、この陣を先ず攻撃すれば必ず敗走します。これが敗走すれば、他の軍も乱れて敗走します。その上で王の親衛隊に集中すれば成功します。と進言した。
と『左氏伝』は伝えるのです。
しかしその前に「周公黒肩、左軍ニ將タリ。陳人、焉ニ屬ス」とありますから、闘志が無かったのは「周公黒肩」でしょう。

「周公黒肩」は鄭伯に抱き込まれていたのでしょう。これが「不満分子を煽動して、恩をうる、」という「鄭荘公」の常套手段です。

さて王が、陳・蔡・衛、等の軍を率いて鄭討伐に行ったが、返り討ちにあったわけです。合戦が始まると先ず陳が次いで蔡・衛の軍が敗走した。王の親衛隊もそれを見て浮足立った。そこへ鄭軍が総攻撃を加えたから、王の軍も大敗した。しかし桓王は、その敗戦のなかで肩に矢傷を負ったにもめげず、よく戦いながら退却した、というのですから、なかなか剛毅な人物であったことが判ります。

 桓王が二卿士制を布いたのは、鄭伯から「王師」の指揮権を奪い返すためであったのでしょう。軍の指揮権を掌握しないうちは、鄭伯を罷免するのは危険で出来なかったのでしょう。
 この繻葛の戦いから逆推しますと、王師の指揮権を取り上げられた鄭伯のほうは、それに備えて、私軍の強化を怠りなく努めていた、わけです。
 『君子ハ多ク人ヲ上グヲ欲セズ。況ヤ敢テ天子ヲ陵ガンヤ。苟モ自ラ救ハントテ也。社稷隕ツルコト無クンバ多ナリ』と言った。
というような甚だカッコよいことを述べていますが、かつて鄭莊公は隠公三年に「四月、鄭ノ祭足、師ヲ帥イテ温ノ麥ヲ取ル。秋、又成周ノ禾ヲ取ル」のために、中原諸国の総攻撃を食った苦い記憶があります。
このときは首謀者の「衛の州吁」が謀殺されるという。鄭伯にとって思いがけない幸運に恵まれましたから、切り抜けることができましたが、この轍は二度と踏みたくは無かったでしょう。

 鄭莊公の目論見は、桓王の弑殺は周公黒肩に任せて、周公黒肩を次期天子に擁立して、自分は「王ノ卿士」として実権をにぎる、簒奪はその後時期を見て、であったでしょう。

 諸侯が王に叛いて矢を射かける、というような行為は、周王朝始まって以来、これが初めであったでしょう。


 その翌、桓公六年の経文に「夏、四月、公、紀侯ニ成ニ會ス」「冬、紀侯來朝ス」とあり。伝文に「夏、成ニ會スルハ、齊ノ難ヲ諮謀スル也。
北戎、齊ヲ伐ツ。齊侯、師ヲ鄭ニ乞ハシム。鄭ノ大子忽師ヲ帥イテ齊ヲ救ウ。六月、大イニ戎ノ師ヲ敗リ、其ノ二帥大良・少良・甲首三百ヲ獲テ、以テ齊ニ献ズ。是ニ於テ諸侯ノ大夫、齊ヲ戌ル。齊人、之ニツヲ饋ル。魯ヲシテ其ノ班ヲ為サシム。鄭ヲ後ニス。鄭忽、其ノ功有ルヲ以テヤ怒ル。故ニ郎ノ師有リ」
「冬、紀侯、來朝スルハ、王命ヲ請イ以テ成ヲ齊ニ求ムルナリ。公『能ハズ』ト告グ」とあります。

 鄭と齊は紀国に奇襲をかけようとしましたが、見破られて失敗しました。そこで戦術を変えて、山東地方各地に散在している紀の附庸国から、奪い取ってゆく方針をとったのです。
 齊の脅しに屈して州公がまず逃げ出して国を奪われました。州国を護れなかったことで、紀は随分無念な思いをしたことでしょう。西周王朝時代の法律やモラルは通用しないのです。

 そこで、この夏、齊に対する対策を、根本的に見直す必要がある、と母の弟である「魯公」に相談に来たのです。「魯」はこの十年ばかり鄭の子分のようにお供して廻っていますから、中央の事情に詳しいと見たのでしょう。
 紀侯が帰ると、それと入れ違いに北戎が侵入して、齊の邑を荒らし廻りました。

 紀国は前にも述べたように、西周王朝の初期から山東地方の方伯として、北戎東夷対策の中心でありました。ちょうど中原地方で、申国が荊楚対策の中心を勤めたのと、同じような立場であったのでしょう。
 北戎東夷諸族の一部が、山東地方に侵入しようとする場合には、紀国が中心になって、それを撃退し。北戎東夷諸族が飢餓に苦しむ年には、食料を救援し、病人の手当てをし、彼らを手懐け信頼を得ていたのです。
山東地方の諸国は、北戎東夷の侵入があった場合は。直ちに紀國に報告して、紀國の命令により近隣の諸国は、軍隊を出して共同して侵入者を追い払っていたのです。

しかし齊国は紀国に救援を求めるのは面白くなかったのでしょう。それで中原の鄭に援軍を要請しました。鄭にとっては一の子分である齊国が大変だ、ということで。太子の忽(後の昭公)が救援軍を率いて、六月に北戎の軍を破った。それで諸侯も知らんふりをしているわけには行かない、と重い腰をあげて大夫達が兵を率いてかけつけ、齊国の邑を護った。
 齊は、それら諸侯の軍に、食料を贈り、その分配は魯に任せた。魯はその分配のときに鄭軍は後まわしにした。鄭の太子忽は、最も功績のあるオレを後にするとはケシカランと怒った。のちの「郎ノ戦イ」は、それが原因で起こった。
と『春秋左氏伝』は言うわけです。

 冬に再び紀侯が魯に来ました。王命を戴いて齊と和平したい、という話でしたが、魯公は不可能ですと答えた。
王命があったから平和裡に領土を返還する、などあり得ないのです。時代は変わっているのですよ。実力で、軍事力で解決するより他ないのですよ。と魯公は説明したのでしょう。

その二年後、桓公八年の経文に「冬、十月、雪雨ル。祭公來リ、遂ニ王后ヲ紀ヨリ逆ウ」伝文に「祭公來リ、遂ニ王后ヲ紀ヨリ逆ウ。禮也」とあり。
 更に翌桓公九年の経文に「九年、春、紀ノ季姜、京師ニ歸グ」伝文に「九年、紀ノ季姜、京師ニ歸グ。凡ソ諸侯ノ女ノ行ク、唯王后ノミ書ス」とあります。

 繻葛で敗れた桓王は、時代は変わったと、肌身で感じたのでしょう。天子に平然と矢を射かける者が、現れたのです。また信頼できる、強力な味方は意外に少ない、と知ったのです。
心の底から信頼できる、誠実で強力な同志をつくらなければならない、と考えたのでしょう。

昔、周族は姜族と同盟を結ぶことにより、殷帝国を破り天下の支配権を得ました。西周王朝時代には、周王室は姜姓諸国と婚姻関係を通じて、固く結びつき、西周王朝は姫姜同盟がその根幹を支えてきたのです。

 周王室東遷にあたっては、平王の外祖父である申侯が身を削って、周室の基礎を築いてくれたのです。しかしその申・呂・許ら姜姓諸国は、滅亡寸前の状態です。桓王を強力に応援できる力のある国は、沿海地方姜姓の宗家である「紀」しかなかったのです。

 従って桓王としては「紀」の公女を王后に迎えたのは、そのような目的があったのでしょう。
 紀国側としても、周王室にはどうしても立ち直って貰いたかった。彼らが持っていた武力は、外敵・夷狄の侵攻を防ぎ人民の生活を護るためのものでした。諸夏、すなわち周王朝体制下の国々が、互いに戦う為にその武力を用いるようなことが起こるとは夢にも思ったことはなかったのです、あってはならないものと考えていました。
そのような行為を行うことは、善良な人民を苦しめる夷狄と同じ境遇に身を落とすことでした。必ず周王に罰せられるものと信じていました。
 ところが、紀の附庸である州国が、齊国に武力で奪われても、その齊国は周王に罰せられない、という彼らには思いもよらない事態が発生したのです。中原地方では、数十年ばかり前から、そのような事態が起こっていましたが、山東地方にそれを真似するものが現れる、とは思ってはいなかったのです。

 春秋戦国の乱世の歴史を知る後世から見れば、武力で奪われたのであれば、武力で奪い返せばよいではないか。衰えるばかりの周王室に頼るなど時代錯誤だ、と思えますが。当時、すなわち平和時から乱世時への入口にいた人々には、周王による法の制裁を、お願いするのが、正しい態度だと考えたのでしょう。当然のことですが、西周時代には、私的制裁・私的報復は固く禁じられていたに違いありません。
 だから、どうしても周王室には一日も早く立ち直って、鄭・齊のような無法を働く国を、取り締まって貰わなければならない、と考えていました。

 その翌、桓公十年(BC702年)の経文に「冬、十有二月、丙午、齊侯・衛侯・鄭伯來リテ郎ニ戦ウ」伝文に「冬、齊・衛・鄭來リテ郎ニ戦ウトハ、我、辭有ル也。初メ、北戎、齊ヲ病シ、諸侯之ヲ救ウトキ、鄭公子忽、功有リ。齊人、諸侯ニ、キ、シ、魯ヲシテ之ニ次セシメシニ、魯、周班ヲ以テ鄭ヲ後ニス。鄭人怒リ、師ヲ齊ニ請フ。齊人、衛ノ師ヲ以テ之ヲ助ク。故ニ侵伐ト稱セズ」とあります。

 前にも述べたように、桓公六年の北戎を破った戦いの、後始末が原因で、この郎の戦いが起きた、と云うのですが、「我、辭有ル也」すなわち我が方に言い分がある。
 今まで、このような場合に、常に鄭を主座に据えていたのは、鄭が「王ノ卿士」であったからである。しかし「王ノ卿士」を罷免された後は、特別扱いするわけに行かない。周王室の序列では、鄭はこれら諸国のなかでは低いから、キ、を配るにも後廻しになったわけだ、別に苦情をうける理由はない。と『春秋左氏伝』は言うのです。

 しかし鄭の荘公は、順序が後回しになったから、つまり面子をつぶされたぐらいで、戦争を始めるような人物ではありません。
また桓公六年に面子をつぶされたものを、その四年後になって急に怒り出すのもツジツマが合いません。
前後の事情から考えますと、昨年の紀の季姜と桓王との結婚を、鄭・齊を伐つための周王と紀国の同盟と見たのでしょう。その同盟の下働きをした魯を、裏切り行為と見て攻めたのでしょう。
 翌桓公十有一年の経文に「春、正月、齊人・衛人・鄭人、悪曹ニ盟ウ。」とあります。おそらく謝罪してこちら側に付かなければ、本格的な攻撃を加えるぞ、と魯を威嚇したのでしょう。

 ところがこの年の五月、鄭莊公は突然、急死します。「夏、五月癸未、鄭伯寤生卒ス。」とあります。これで中原地方は、変転極まりない情勢となります。

 さて莊公死後の鄭国内の動きを見ると、死んだ鄭莊公は目先の欲望ばかり強くて、その駆け引きには長じていたが、将来に対する洞察とか用意に、まったく欠けていた人物であった事がよく判ります。自分が忠誠心を持っていなかったから。彼が育てた家臣も忠誠心を持っていた人は一人もいません。

 経文「夏、五月癸未、鄭伯寤生卒ス。秋、七月、鄭ノ莊公ヲ葬ル。九月、宋人、鄭ノ祭仲ヲ執ウ。突、鄭ニ歸ル。鄭ノ忽出デテ衛ニ奔ル」
 伝文「鄭ノ昭公ノ北戎ヲ敗ルヤ、齊人、將ニ之ニ妻セントス。昭公辭ス。祭仲曰ク『必ズ之ヲ取レ。君、内寵多ク、子、大援无シ。將ニ立ツコト得ザラン。三公子ハ皆君タラン』ト從ワズ。夏、鄭ノ莊公卒ス。初メ、祭ノ封人仲足、莊公ニ寵アリ。莊公、卿為ラシム。公ノ為ニ曼ヲ娶ラセ、昭公ヲ生ム。故ニ祭仲、之ヲ立ツ。宋ノ雍氏モ、鄭莊公ニ女セ、雍テト曰イ煙ヲ生ム。雍氏ノ宗、宋莊公ニ寵有リ。故ニ祭仲ヲ誘キ之ヲ執エテ曰ク『突ヲ立テズバ、將ニ死ス』ト。亦、レイ公ヲ執エテ賂ヲ求ム。祭仲、宋人ト盟イ、レイ公ヲ以テ歸リ而シテ之ヲ立ツ。秋九月丁亥、昭公、衛ニ奔リ、己亥、レイ公立ツ」

 五月に鄭莊公が死んだ。七月にそれを葬った、というのですから。このときには太子の忽が後を継いで昭公となったわけです。
 その後、宋の人が、鄭の卿であった祭仲を誘拐して「次男の突を鄭の国君にしろ、しなければお前を殺す」と脅した。また次男の突も捕えて、「貴方を鄭の国君にしてやるから賄賂を寄こせ」と言った。
 そういうわけで、祭仲は宋人と盟って帰国し、九月に昭公を追い出して、突を鄭の国君の座に据え レイ公と称した。と『春秋左氏伝』は言うのですが、ツジツマの合わない話です。
 言うまでもありませんが、祭仲は解放されて帰国したときに「脅されてした約束は無効だ」と言えばよいからです。あるいは、当時の「盟」は今日の常識では理解できないほど神聖なものであったから、脅迫されて交わした「盟」でも実行しなければならなかったのだろう、と推測されるかも知れませんが、その翌年には鄭は魯と連合して宋に攻め入っているのです。

 『春秋左氏伝』桓公十有二年の経文に「冬、十有一月、丙戌、公、鄭伯ニ會シ武父ニ盟ウ。」「十有二月、鄭ノ師ト宋ヲ伐ツ。丁未、宋ニ戦ウ」とあります。
 その翌年には、紀国や齊国を巻き込んだ大合戦となりますが、伝文に「宋、多ク賂ヲ鄭ニ責ム。鄭、命ニ堪エズ。故ニ紀・魯ヲ以テ齊・衛・燕ト戦ウ」とあります。

 すなわち祭仲や鄭公子突が、宋と交わした盟の賂が支払えない、という事で紀や齊を巻き込んで戦ったのです。祭仲は死んだ主君、鄭莊公をさらに狡猾にしたような男で、盟約など誓ったしりから 平気で破る男でした。


        鄭 の 内 紛


 当時の事情は、前後を総合して考えると、大よその見当はつきます。
 祭仲は祭という小国の封人でしたが、鄭莊公の気に入られ、卿にまで出世した莊公子肥いの寵臣でありました。莊公が死んだとき、オレにも運がむいてきた、と思った。莊公が周王室や、鄭の恩人である申国を食い物にして、のし上がって来たのを見て来た彼は、莊公死後の鄭国を食い物にして、のし上がる好機が訪れた、と考えたのです。
 しかし昭公はしっかりした人物で、祭仲の思うままにはさせてくれません。それで次男坊の突を煽動しました。これは故莊公の十八番とした手法で、祭仲は莊公直伝の手をそのまま使ったのです。

 突の母は宋の雍氏の出です。その縁故を以て宋国に兵を貸してもらいたいと申しこんだ。宋のお力で突が鄭の国君になれば、以前に宋から賠償としてとった領土や領民は、そちらへお返し致しますよ。また魯国のものとなっている「コウ」邑や「防」邑もそちらへ返還させましょう。と持ち掛けた。 祭仲は莊公のお供をして国際交渉、いわゆる樽俎折衝の場数を多く踏んでいたから、このような交渉はお手のものでした。

 宋は齊・魯・鄭の連合軍に奪われた領土の回復が悲願だったから、この祭仲の持ち掛けた餌に、飛びついたに違いない。祭仲の約束だけでは心許ないから、突を呼んで確認を求めた。突も祭仲に煽動されて、兄の昭公に代わって国君になりたいと考えていたから、そのためには何にでも誓約した。

 祭仲は鄭国に帰ると、昭公に「貴方は辞めて頂きます。鄭の国君は突になってもらいます」と通告した。
 昭公は怒り狂ったでしょう。だが身の廻りは少数の側近のみで、鄭都の要所は祭仲がひそかに引き入れた宋兵で固められている。拒絶すれば殺されるだけである。如何ともする術もなく、鄭国から退去し衛へ奔った。
 祭仲としては「貴方の親父さんの莊公から、教えられた通りのことをしただけだ。怨むなら親父さんを怨め。」というのが偽らざる心境であったでしょう。

 こうしてレイ公が鄭の国君となった。毛利元就の「三本の矢」の訓えでないが、このとき兄弟が一致結束して国を守っておれば、鄭はその後も中原の大国として重きをなしたろう。しかし祭仲に付け込まれて、昭公を追い出してレイ公が国君となったために、鄭はたちまち弱小国に転落してしまう。

 さて当然のことだが、宋から約束した賂を支払え、という催促が来たろう。
 だが問題は魯領となっている「コウ」や「防」である。
祭仲は魯に「宋へ返して頂けませんか」と持ち掛けたが、魯に一蹴された。祭仲は「それでは、そちらから宋に断りを言ってください」と責任を転嫁した。

 魯国は、いまになって「コウ」や「防」を取り返されては、たまらない。とその翌年、穀丘で魯と宋が話し合った。「コウ」や「防」は我々両国の間ですでに解決済で、何度も誓った上に証拠の大鼎も受け取っている。それを貴国と鄭国との取引にからめて持ち出してくるとは筋違いではないか。賂が不足だというのであれば、鄭領の邑を取ればよいのではないか。と話したのであろう。

 穀丘では、魯の言い分が通って、宋は納得したかに見えた。だが「コウ」や「防」という邑は、宋にとっては、西周時代から数百年にわたる父祖伝来の邑だ。居住している領民は、血のつながった同族である。異族である魯国の支配に委ねておくのは、あまりにも辛い。どうしても返還してほしいので鄭を突き上げた。
 「あの時、祭仲は盟ったではないか、鄭は如何なる犠牲を払っても、魯から『コウ』や『防』を取り返し、宋へ返還してくれ。」
 こうして魯と宋の会議は、再び八月に虚地で行い、さらに十一月に龜地で行ったが、宋公は承知せず、物別れになった。かくなるうえは、実力あるのみ、ということで、十二月に鄭・魯の軍隊は連合して、宋に先制攻撃をかけた。

 『春秋左氏伝』桓公十有二年の経文に「秋、七月丁亥、公、宋公・燕人ト會シテ穀丘ニ盟ウ。八月、公、宋公ニ虚ニ會ス。冬十有一月、公、宋公ニ龜ニ會ス。丙戌、公、鄭伯ニ會シテ武父ニ盟ウ。十有二月、鄭ノ師ト宋ヲ伐ツ。丁未、宋ニ戦ウ。」
 伝文に「公、宋・鄭ヲ平ガセント欲シ、秋、公、宋公ト句トク、ノ丘ニ盟ウ。宋ノ成キ未ダ知ル可カラザル也。故ニ又、虚ニ會ス。冬、又、龜ニ會ス。宋公、平ラギヲ辭ス。故ニ鄭伯ト武父ニ盟ウ。遂ニ師ヲ帥イテ宋ヲ伐チ戦ウ。」とあります。

 『春秋左氏伝』には、「宋、信无ケレバナリ。君子曰ク、苟モ信繼ガズンバ、盟モ益无キ也。詩ニ曰ウ『君子屡盟ウ。亂是ヲ用テ長ズ』トハ、信無ケレバ也、ト」と例によって、見当違いのコメントを付け加えていますが。信義が無いのは、祭仲や鄭レイ公のほうです。
そもそも十年ばかり前に、武力を以て「コウ」や「防」という邑を奪い取ったのが、無法な話で信義や正義が鄭や魯にある、というような主張ができる筋合いなど全く無いのです。

 さて宋に攻め込んだ魯軍は、肝を冷やしたに違いない。同盟軍の鄭軍が、莊公没後の内紛のせいで、極端に弱くなっていたからである。昔日の勢いはまったく無かった。おそらくほうほうの態で引き揚げて来たのだろう。
 その翌年、桓公十三年の二月には、魯・鄭両国は、紀国を味方に引き入れて、齊・宋・衛・燕と戦った。(この戦いは、後に『黄帝神話原型』で炎帝を破った阪泉の戦となるのであるが、これについては後節で述べる。)

 更にその翌年、桓公十四年には経文「冬、宋人、齊人・蔡人・衛人・陳人ヲ以テ鄭ヲ伐ツ。」伝文に「冬、宋人、諸侯ヲ以テ鄭ヲ伐ツハ、宋ノ戦イニ報ユ也。渠門ヲ焚キ、入リテ大逵ニ及ビ、東郊ヲ伐チ、牛首ヲ取リ、大宮ノ椽ヲ以テ歸リ、盧門ノ椽ト為ス。」とある。

 鄭は永い間、諸国から怨まれていたから、弱くなったと見るや袋叩きにあったわけだ。「渠門ヲ焚キ、入リテ大逵ニ及ブ」というから、鄭城の大手門を焼き討ちにして、突入し、都大路に達した。
 「東郊ヲ伐チ、牛首ヲ取ル」杜註によれば「東郊ハ鄭ノ郊、牛首ハ鄭ノ邑」とある。鄭城の内外を蹂躪したうえで、牛首という邑を奪った。さらに「大宮ノ椽ヲ以テ歸リ、盧門ノ椽ト為ス」杜註によれば「大宮ハ鄭ノ祖廟、盧門ハ宋ノ城門」とある。
 椽とは「たるき」である。鄭の祖廟のたるきを持って帰り、宋の城門のたるきにした、とはどのような意味を持っているのか判らないが。大方、連合軍が鄭の祖廟に攻め入ったときには、位牌や祭器などは持って逃げ出していて、空っぽになっていた。宋兵は祖廟のたるきを切り取って、宋の城門の敷居に用いたのでしょう。出入りのたびに、それを踏んづけて、鄭の莊公に苛められた積年の怨み、思い知ったかとばかり、うっぷんを晴らしたのだろう。

 かくて鄭は滅亡寸前の状態に陥った。だが鄭国の没落が、即祭仲らの没落に繋がるわけではない。かえって祭仲らの権力はますます強くなるのである。国君のレイ公は名ばかりで、実権は祭仲にすべて握られてしまった。

 桓公十五年の経文に「五月、鄭伯突、出デテ蔡ニ奔ル。鄭ノ世子忽、鄭ニ復歸ス」伝文に「祭仲專ナリ。鄭伯之ヲ患エ、其ノ婿、雍糺ヲシテ之ヲ殺サシム。將ニ諸ヲ郊ニ亨セントス。雍姫、之ヲ知リ、其ノ母ニ謂イテ曰ク『父ト夫ト孰レカ親シキ』其ノ母曰ク『人ハ盡ク夫ナリ。父ハ一ノミ。胡ゾ比スベケン』ト。遂ニ祭仲ニ告ゲテ曰ク『雍氏、其ノ室ヲ舎テテ、將ニ子ヲ郊ニ亨セントス。吾、之ニ惑ウ。以テ告グ』ト。祭仲、雍糺ヲ殺シ、諸ヲ周氏ノ汪ニ尸ス。公載セテ以テ出デテ曰ク『謀、婦人ニ及ブ。宜ナリ其ノ死スコト』ト。夏、レイ公出デテ蔡ニ奔ル。六月乙亥、昭公入ル」とある。

 レイ公は祭仲を殺すより他に実権をとりもどすことは出来ない、と考えて、祭仲の娘婿である雍糺に命じた。
 雍糺であれば祭仲も油断があるだろう、と思って命じたのであろうが。それが裏目に出て、雍糺の妻から祭仲にその計画が密告された。祭仲は直ちに雍糺を殺し、見せしめに周氏の池にさらした。
 レイ公はその死骸を車に乗せ、「謀を婦人に洩らすようでは、殺されるのも当然だ」とグチをこぼしながら、蔡国へ逃げた。
 祭仲は、以前に追い出した昭公を、連れ戻して国君にすえた。
 
さて鄭の国君に復帰した昭公だが、その寿命は短かかった。昭公はなかなか傑れた人物であったから、祭仲らのロボットに甘んじることは出来なかった。軍事、行政の実権を取り返そうとしたに違いない。祭仲らは実権が昭公に握られたときには、厳しい制裁があると怖れた。だが昭公は祭仲には心を許さず、常に用心して隙を見せない。それでこんどは高渠彌が昭公を殺した。昭公が鄭の国君の座にいたのは、わずかに二年間であった。

 高渠彌らは、昭公の跡継ぎとして、昭公の弟、公子ビを立てた。
だがこの不幸な公子の国君たる期間は、一年にも満たなかった。その翌年、桓公十八年の伝文に「秋、齊侯、首止ニ師ス。子ビ、之ニ會ス。高渠彌相ク。七月戊戌、齊人、子ビ、ヲ殺シ、而シテ高渠彌ヲ、カン、ニス」とある。

子ビは殺され、高渠彌は車裂きの刑に処せられたのである。
 このように武公・莊公と権勢を擅にしてきた鄭は、莊公死後こんどは莊公子肥いの家臣達により、ガタガタにされてしまう。


                           紀候(黄帝)の登場


さて以上までに見てきた「春秋初頭史」のなかで、いよいよ『紀候』(黄帝)が登場してきます。

 『春秋左氏伝』桓公十三年(BC699年)に
 経文「十有三年、春、二月、公、紀侯・鄭伯ニ會ス。己巳、齊侯・宋公・衛侯・燕人ト戦ウ。齊ノ師・宋ノ師・衛ノ師・燕ノ師敗績ス。」
 伝文「宋、多ク賂ヲ鄭ニ責ム。鄭、命ニ堪エズ。故ニ紀・魯ヲ以テ齊・宋・衛・燕ト戦ウ。戦ウ所ヲ書セザルハ、後レタレバ也。鄭人來リテ、好ヲ脩メンコトヲ請ウ」

とあります。
 
二月に魯公と紀侯が鄭伯と会った。己巳の日に、齊侯・宋公・衛侯・燕人を相手に戦った。伝文に「戦ウ所ヲ書セザルハ、後レタレバ也」とあるのは、魯軍は戦闘におくれて、戦闘が終わったのちに到着した、それ故に場所を記録していない、というのです。
 ですからこの戦いは、齊・宋・衛・燕の連合に対して、紀と鄭の連合で戦ったということになりますが。鄭は莊公死後の内紛で、戦力は極度に弱体化していましたから、この戦いは実質的には紀軍がほとんど独力で齊・宋・衛・燕を相手に戦ったわけです。

 「齊ノ師、宋ノ師、衛ノ師、燕ノ師敗績ス」敗績とは大敗したという事です。『春秋左氏伝』莊公十一年の伝文に「凡ソ師ニ、敵未ダ陳セザルヲ『某ノ師ヲ敗ル』ト曰イ、皆陳スルヲ『戦ウ』ト曰イ、大イニ崩ルルヲ『敗績ス』ト曰ウ」とあります。

「紀国」がどうして「鄭国」などと同盟して戦ったのか、不思議と思えますが。おそらく私的制裁、私的戦争は許してはならない。王様に訴えて王様のお裁きを受けるのが、諸侯の義務だ。どのような言い分があっても、諸侯が私的の戦争を始めてはならない。と考え、もしそれを守らなければ王に代わって、王の義弟である私が許さない。と諸侯に宣言していたのでしょう。

しかし「鄭の荘公」が死んだあとは、オレが後継者となって天下を仕切ってやる。と野心を抱いた「斉の釐公」は、その宣言を無視して「鄭国」征伐に宋・衛・燕を引き連れて、出かけた。そして激突したのが「『春秋左氏伝』桓公十三年の戦」となるわけです。

 
この戦いが、前にも述べたように『黄帝伝承原型』にある
「阪泉ノ戦」です。
 ここで『黄帝伝承原型』を再掲しておきます。
 「黄帝ハ少典ノ子ナリ。姓ハ公孫、名ハ軒轅ト曰フ。生マレテ神霊、弱ニシテ能ク言イ幼ニシテ徇斉、長ジテ敦敏、成リテ聡明ナリ。軒轅ノ時、神農氏ノ世衰フ。諸侯相侵シ伐チ、百姓ヲ暴虐ス。而シテ神農氏征スル能ハズ。是ニ於テ軒轅乃チ干戈ヲ用フルコトヲ習イ、モッテ不享ヲ征ス。諸侯ミナ来タリテ賓従ス。而シテ蚩尤最モ暴ヲ為スモ、能ク伐ツモノナシ。炎帝諸侯ヲ侵陵セント欲ス。諸侯ミナ軒轅ニ帰ス。軒轅乃チ徳ヲ修メ兵ヲ振ヘ、五気ヲ治メ、五種ヲdエ、万民ヲ撫デ、四方ヲ度リ、熊・羆・貔・貅・チユ・虎ニ教ヘ、以テ炎帝ト阪泉ノ野ニ戦フ。三タビ戦ヒテ、然ル後其ノ志ヲ得」

 この『黄帝神話原型』に云う「神農氏」は、周王室のことであり。「炎帝」は「齊侯」(釐公祿父)です。
 「黄帝」は何度も述べたように、『春秋左氏伝』に云う「紀侯」であり、『記紀神話』に云う五瀬命です。
 その母、すなわち『記紀神話』でいう豊玉姫は、『春秋左氏伝』隠公二年(BC721年)「冬、十月、伯姫、紀ニ歸グ」とある。従ってその翌年に、五瀬命が誕生されているとすれば、BC720年生まれです。だからこの「阪泉ノ戦」、すなわち『春秋左氏伝』桓公十三年(BC699年)の戦いのときは、二十一才です。


 さらに遡り、『春秋左氏伝』桓公五年「夏、齊侯・鄭伯、紀ニ朝シ、以テ之ヲ襲ハント欲ス。紀人之ヲ知ル。」という事件。すなわち、齊侯・鄭伯の奇襲攻撃を事前に察知して防いだ、という時は、十四才でした。
『黄帝神話原型』で「生レテ神霊」「幼ニシテ徇斉、長ジテ敦敏」と云われるのは、この十四才という若さで、老獪な鄭莊公や齊侯の陰謀を見破って、未然にそれを防いだ知謀に、当時の人々は驚嘆したわけです。

 しかし紀国の附庸国『州』国は、この年の冬に滅亡しました。
同年の『春秋左氏伝』経文に「冬、州公、曹ニ如ク。」伝文に「冬、淳于公、曹ニ如ク。其ノ国ノ危キヲ度リテ、遂ニ復ラズ。」
 その翌、桓公六年の経文に「夏、四月、公、紀侯ニ成ニ會ス」「冬、紀侯來朝ス」とあり。伝文に「冬、紀侯、來朝スルハ、王命ヲ請イ以テ成ヲ齊ニ求ムルナリ。公『能ハズ』ト告グ」とあります。

『黄帝伝承原型』で、これに対応するところは、「而シテ神農氏征スル能ハズ。是ニ於テ軒轅乃チ干戈ヲ用フルコトヲ習イ、モッテ不享ヲ征ス。」です。

すなわち東周王朝には、その無法な国々を征伐する力は無かったのです。止むを得ず、紀侯はこのころから兵法を学び、自ら無法者を征伐しなければならない、と決意したのです。
 もちろん紀侯一人が兵法を学んだから、齊・宋・衛・燕らの連合軍を打ち破ることが出来る、というようなことではないでしょう。

 紀は西周初期から、北狄東夷対策の責任者であったのです。ちょうど「申」侯が、西周王朝下で、西戎対策の責任者を永く勤め、西周王朝末期には南方の荊蛮対策の責任者も勤めたように。紀国は北狄東夷対策の責任を担ってきたのです。それは北狄東夷の面倒をよくみて、その心を掴んでいるうえに、万一北狄が武力をもって侵入してきた場合は、それを制圧できる実力がなければならなかったのです。
 だから紀国は、一般諸国より強力な軍隊をもっていたのでしょう。しかしそれは、あくまでも夷狄・外敵相手の戦いで。同じ周王朝傘下の諸国との戦いは、一度も経験していなかったのです。

 そのような戦いは、起きるわけのない、有ってはならないものでした。桓公五年に『州』国が齊に滅ぼされたのちも、戦争によらず王のお裁きにより平和的に解決できないか、と考えたのです。

桓公六年の伝文に「冬、紀侯、來朝スルハ、王命ヲ請イ以テ成ギヲ齊ニ求ムルナリ。公『能ハズ』ト告グ」とあります。

 しかし、そのような平和的な方法の通用しない時代に、変わってきていることも判っていました。
『黄帝伝承原型』に「熊・羆・貔・貅・チユ・虎ニ教ヘ」とあるように、諸侯の正規軍を相手にした戦争、具体的に云えば戦車を中心にした軍隊を相手にした戦いの、猛訓練を行っていたのでしょう。



 さてこの桓公十三年の戦い(『黄帝神話原型』では阪泉の戦い)は、容易な戦いではなかったに違いありません。相手方の齊・宋・衛・燕は、正規軍相手の戦争を何度も経験している、歴戦の軍隊です。また「齊」「宋」は後に「春秋の覇者」を出す國です。おそらくこの「桓公十三年の戦い」の頃には中国で最も人口の多い、当然兵力も多い國は「斉国」で、二番目が「宋国」であったでしょう。

 紀国軍は始めて経験する正規軍相手の戦いである上に、同盟軍である魯軍が遅れました。しかし紀侯は他人をあてにしていなかったのです。戦機熟すと見るや、魯軍の到着など待っていなかった。独力で果敢に攻撃を開始しました。
『黄帝伝承原型』に「三タビ戦イ、然ル後其ノ志ヲ得」とありますから、容易に勝敗は決まらず死闘を繰り返したが、最後には大勝利をかち取ったのです。それまでの猛訓練が成果をあげたわけです。
 この戦いで紀国側は、正規軍相手の戦争、対戦車戦法にも自信をもったでしょうし。紀侯は名将と評価されるようになったに違いありません。
おそらく「紀国」は國自体は、それほど大きくなかったが、一度び旗をあげると、山東地方の国々から、熊・羆・貔・貅・チユ・虎の如き猛者達が続々と集まったのでしょう。
丁度わが国の源平時代に、伊豆の流人であった「源頼朝」が平家追討の旗をあげると、東国の武士がこぞって馳せ参じたのと、よく似た立場であったのでしょう。

 炎帝すなわちこの戦いに敗れた齊侯は、大敗に気落ちしたのか、その翌年に死にました。『春秋左氏伝』桓公十有四年の経文に「冬、十有二月丁巳、齊侯祿父、卒ス」とあります。

 続いて「宋人、齊人・蔡人・衛人・陳人ヲ以テ鄭ヲ伐ツ」という記事があります。
 これは前節で述べた「冬、宋人、諸侯ヲ以テ鄭ヲ伐ツハ、宋ノ戦イニ報ユ也。渠門ヲ焚キ、入リテ大逵ニ及ビ、東郊ヲ伐チ、牛首ヲ取リ、大宮ノ椽ヲ以テ歸リ、盧門ノ椽ト為ス」という戦いです。

 紀侯は、この戦いには参戦していません。おそらく入洛していたのであろうと思われます。昨年、齊侯以下を大破して、山東地方は爭乱が発生する心配はない。紀侯は後顧の憂なく、留守にすることが出来たのです。

 翌、桓公十有五年、経文「春、二月、天王、家父ヲシテ來リテ車ヲ求メシム。三月乙未、天王崩ズ」 伝文「十五年、春、天王、家父ヲシテ來リテ車ヲ求メシムルハ、禮ニ非ザル也。諸侯ハ車服ヲ貢セズ、天子ハ私ニ財ヲ求メズ」杜註に「車服ハ上ノ下ニ賜ウ所以」とあります。

 これらから考えると、左丘明のころには、ほとんど意味が判っていなかったのでしょう。まったくピント外れの伝註です。
この時期に桓王が車を求めた、というのは、諸国から戦車を徴発しようとした以外に考えられないでしょう。

 これまでの経過の要点を、もう一度見ておきますと。

 、 

桓王時代の略史
BC720年3月、庚戌 平王崩ず。桓王が跡を継ぐ
同年4月 鄭の祭足、師を帥いて温の麦を取る。秋、又成周の禾を取る。
BC715年 始めて二卿士制を布く
BC707年、 夏 齊侯・鄭伯、紀に朝し以て襲わんと欲す。紀人、之を知る。
王、鄭伯の政を奪う。鄭伯朝せず。
         秋 王、諸侯を以て鄭を伐つ。鄭伯、之を禦ぎ、繻葛に戦う。王師敗る。
BC704年、 冬 祭公來り遂に王后を紀より逆う。
BC703年、 春 紀の季姜、京師に歸ぐ。
BC701年、夏五月癸未 鄭伯寤生卒す。
BC699年、春、二月 公、紀侯・鄭伯に會す。己巳、齊侯・宋公・衛侯・燕人と戦う。齊の師・宋の師・衛の師・燕の師、敗績す。
BC697年、春、二月 天王、家父をして來りて車を求めしむ
      三月乙未 天王崩ず

桓王の治世は23年間でしたが、そのほとんどは「王の卿士」である鄭伯から国政を取り返すに費やされました。
先代の平王の後半からは、周王朝の国政は鄭伯に事実上乗っ取られていたのです。鄭伯をようやく罷免できたのは、桓王13年(BC707)になってからです。
しかしその年の秋には繻葛の地で鄭伯と戦い、王師は大敗し、桓王は肩に矢傷を負うという状況だったのです。
依然として周王室は、非力のままでした。

桓王が将来に明るい見通しを持てたのは、『春秋左氏伝』桓公十三年(BC699)の戦いに、王妃の兄である紀侯が齊の師・宋の師・衛の師・燕の師に大勝してからでしょう。この時以降は王も、王直属の軍隊も、大いに意気があがったでしょう。
この時、王が考えられたのは、王室直属の軍隊を強化し、諸侯の軍隊を削減することだったでしょう。
王室直属の軍隊より強大な軍隊を諸侯が持つのは、社会を不安定にする因です。BC697年、春、二月に、「天王、家父をして來りて車を求めしむ」という行動に出たのは、諸侯の軍隊を削減し、王室直属の軍隊を強化しようとしたのでしょう。


当時の戦争は、馬に曳かせた戦車を中心にした戦いでした。戦車には御者を含めて三人の戦士が乗りました。この三人は相当な伎倆が必要であったに違いありません。永年、鍛練された戦士でなければ役に立たなかったでしょう。
戦車とともに戦車に乗務する戦士も供出するように求めたのでしょう。

 本来、諸侯の軍隊は、外敵の侵入を防ぎ、人民を護るためのものでした。私の領土を広げるために、同じ周王朝体制下の諸国を攻撃して、人民を苦しめるような事は、絶対に許されない事でありました。

 しかるに平王の時代に「王ノ卿士」に任命された鄭伯は、職権を悪用して他領を奪い、私の領土を広げたのです。平王が崩じ、桓王が後を継ぐと、鄭伯から軍事・行政の実権を取り戻そうと苦心しました。ようやく取り戻したときには王の軍隊より、鄭伯の私設軍隊のほうが強化されていたのです。鄭伯を征伐しようとした王は、繻葛の地で戦い、返り討ちにあったのです。

 桓王はそのときから、周王直属の軍事力を強化して、諸侯の私設軍事力を削減する以外に。秩序の回復も、人民が安心して生活できる平和な環境も、取り戻す方法はないと考えていたに違いありません。ただ情勢が不利で、実行に移せなかったのです。
 しかし東周王朝の癌であった鄭莊公は死にました。その後、鄭国は内紛続出で滅亡寸前の状態です。鄭莊公の同盟者で、一の子分であった齊侯は、紀侯に大敗を喫し、意気消沈しています。いまこそ実行に移すべきとき、と桓王は考え、王妃の兄である紀侯を招いたのでしょう。

 紀侯は、桓王が始めて得た信用できる同志でした。しかも齊・宋以下の強国連合を大破した、強力な実行力を持っていました。
 王の意見には紀侯はまったく同感であったに違いありません。またこの方策が成功しておれば、東周王朝は立ち直ったに違いありません。だが、戦車を供出するよう求める使者を、諸国に派遣した直後、桓王は急逝されました。

 当時の状況から考えると、王は毒殺されたのでないでしょうか。あまりにもタイミングが合い過ぎるのです。
 『春秋左氏伝』には、酖という毒薬が使用される記事が、その頃からひんぱんに出てきますが。桓王も、周公黒肩に毒薬を飲まされたのでないでしょうか。

 周公黒肩は、少年時代に人質として鄭莊公に預けられていました。そのとき鄭莊公の教育を受け、心酔して彼の「下克上思想」の信奉者になっていたのでしょう。
 『春秋左氏伝』隠公六年(BC717年)の伝文に「(冬)鄭伯、周ニ如キ、始メテ桓王ニ朝セリ。王、禮セズ。周ノ桓公、王ニ言イテ曰ク、『我ガ周ノ東遷ハ晉・鄭ニ焉レ依ル。鄭ニ善クシ以テ來者ヲ勸ムルモ、猶オーラザルヲ懼ル。況ヤ禮セザルヲヤ。鄭來ラザラン』ト」とあります。

 当時は、鄭の祭足(祭仲)が、軍隊を使って王領の温や洛邑の農作物を奪った。そのあまりにも無法な、下克上の行為を許すことが出来ないとして、宋・衛その他の中原諸国が、連合軍を組織して鄭を伐ち、その農作物を奪って見せしめにした時です。
 そのときに王の弟である周桓公(黒肩)が、王にそのような諌言をしたのですから、周桓公は鄭莊公に抱き込まれていたに違いありません。

 その十年後、BC707年(桓公五年)王は鄭伯と繻葛の地で戦いました。このとき、王は自ら中軍を率い「カク公林父、右軍ニ將タリ。蔡人・衛人、焉ニ屬ス。周公黒肩、左軍ニ將タリ。陳人、焉ニ屬ス」とあります。
 この繻葛の戦いでは、周公黒肩の左軍は、真っ先きに敗走して、王師敗戦の原因をつくったのです。

 更に、桓王が崩くなって三年後、BC694年、『春秋左氏伝』桓公十八年の伝文に「周公、莊王ヲ弑シテ王子克ヲ立テント欲ス。辛伯、王ニ告グ。遂ニ王ト與ニ、周公黒肩ヲ殺ス。王子克、燕ニ奔ル」とあります。

 ここは『史記』周本紀には「莊王四年、周公黒肩、莊王ヲ殺シテ、王子克ヲ立テント欲ス。辛伯、王ニ告グ。王、周公ヲ殺ス。王子克、燕ニ犇ル。」とあり。
事件の内容は『春秋左氏伝』と同じですが、莊王四年はBC693年ですから、年は一年食い違います。月・日は、両書共に記録されていない点から考えますと、原記録では事件の記事のみで、年・月・日は記されていなかったのでしょう。

 おそらく周公黒肩が殺されたのは、BC692年でないでしょうか。その理由は、BC691年、『春秋左氏伝』莊公三年に「五月、桓王ヲ葬ル」とあるからです。伝文に「緩也」と非難していますが、まったく遅い。

 『春秋左氏伝』隠公元年の伝文に「天子ハ七月ニシテ葬リ、同軌畢ク至ル。諸侯ハ五月ニシテ同盟至ル。大夫ハ三月ニシテ同位至ル。士ハ月ヲ踰エテ外姻至ル」とあり、『禮記』にも同じような記事があります。

 天子は死後七ケ月にして葬り、周王朝傘下の諸侯はすべて参列する、と云うのです。ところがBC697年の三月乙未に崩御された周の桓王は、BC691年の五月に葬られているのです。死後六年二ケ月で葬るとは、常識的に考えても、あまりにも異常です。その原因は不明ですが、当時の事情から推測すれば、桓王の死後、後継者が決まらなかったのでしょう。喪主が決まらないから、葬式を出すことが出来なかったのです。

 おそらく、桓王死後、王子佗すなわち後の莊王と、周公黒肩が擁立しようとする王子克が、王位を争って、なかなか決着がつかなかったのでしょう。

 当時の事情を推測しますと、BC703年に紀国から嫁がれた正妃には、男子が生まれなかったのでしょう。正妃に男子があれば、後継争いは生じなかったでしょう。『春秋左氏伝』昭公二十六年の伝文に「昔、先王ノ命ニ曰ク『王后、適無キトキハ、則チ擇ビテ長ヲ立ツ、年鈞シキトキハ徳ヲ以テシ、徳鈞シキトキハ則チ卜ヲ以テス』ト」とあります。
 また『史記十二諸侯年表』に「莊王元年(BC696年)子頽ヲ生ム」とあり。またBC681年に莊王の子、僖王が即位し。更にBC676年に孫、恵王が即位している点から逆算しても、莊王をBC703年に結婚された正妃の実子とするのは無理。

 すなわち莊王佗も王子克も、桓王の側室の子であり、そのなかで莊王が兄、王子克が弟というような関係であったのでしょう。

 「王ノ卿士」を勤めていた周公黒肩は、長男を排して次男の王子克を擁立しようとしました。鄭莊公が得意とした手法です。
後継の資格が低位にあった王子克が王位に就けば、周公黒肩は大きい恩を売ることになり、ちょうど平王時代の鄭武公・莊公のように、東周王朝の実権を手中に収めて、思うがままに切り回せると考えたわけです。
 周公黒肩が横車を押すから、次の王は決まりません。王が不在なわけですから、王師の指揮権は、「王ノ卿士」である周公黒肩が一手に握っていました。東周王朝の武力を握っていますから、強気で無理を通そうとするわけです。周公黒肩に反対する者は、当然生命に危険がありました。

 正式の王が空位の間は、そのように「王ノ卿士」が実権を握っていたのでしょうが。地位として最高であったのは故桓王の未亡人、すなわち紀より嫁がれていた王妃であったに違いありません。
 その王妃の兄である紀侯は、当時東周王朝で「太伯」と呼ばれていたのでしょう。また紀侯は「万一の場合はくれぐれも頼む」と生前の桓王に頼まれていたのでしょう。紀侯は、直ちに山東地方から護衛兵を呼び寄せて、洛邑の警備を固めたのでしょう。

 当時「紀綱之僕」という成語がありました。
 BC636年、晉の公子、重耳(その後、覇者となる晉文公)が亡命先の秦から夫人と共に帰国するとき、秦はそれに護衛兵をつけました。

 『春秋左氏伝』僖公二十四年の伝文に「三月、晉侯,潛カニ秦伯ニ會ス。己丑晦、公宮火アリ。瑕甥・郤ゼイ、公ヲ獲ズ。乃チ河上ニ如ク。秦伯誘キテ之ヲ殺ス。晉侯、夫人贏氏ヲ逆エテ以テ歸ル。秦伯、衛ヲ晉ニ送ルコト三千人、實ニ紀綱之僕ナリ」とあります。

 この用例から考えますと、晉の文公を護衛して行った三千人を、実に「紀綱之僕」のようだ、と言っているわけですから。「精強な護衛隊」というような意味で用いられていたに違いありませんが、その成語が成立した経緯が判りません。
 思うに、桓王が崩くなったのち、紀侯が呼び寄せた護衛の軍隊を「紀侯之僕」と呼んだのが、この始まりでないでしょうか。
 「紀侯之僕」が常に王妃や王子佗(後の莊王)を厳重に警備していたから、周公黒肩の指揮下にある軍隊にも、手出しさせなかったのでしょう。

 周公黒肩にとっては、この「紀侯之僕」はまったく邪魔者でありました。どうしても山東地方へ追い返したい、と考えたに違いありません。『春秋左氏伝』莊公元年の経文、冬の条に「齊師、紀ノ、ヘイ・シ・ゴ、ヲ遷ス」とありますが、これは周公黒肩と齊侯との連携作戦でしょう。
 齊の軍隊が紀侯の留守をねらって、紀国の邑、ヘイ・シ・ゴ、を奪った。これに怒って、紀侯が兵を率いて帰国すれば、そのすきに周公黒肩が王子佗を殺害する、という作戦であったのでしょうが。紀侯は帰国しませんでした。

 紀侯は肚の据わった人物でした。ここで洛邑と本国との間をうろうろしては、付け込まれるだけである、先ず王位を定めるのが大事だ、本国の失地回復はその後にするより仕方がないと考えたのです。
 その翌年、周公黒肩と戦い捕虜としたのち、王子佗すなわち後の莊王に引き渡すことができました。
この戦いが、『黄帝伝承原型』にいう「タク鹿ノ戦い」でしょう。王子克は逃げ、ようやく莊王の即位式を行うことが出来ました。
 BC691年、『春秋左氏伝』莊公三年、経文「五月、桓王ヲ葬ムル。」伝文「夏、五月、桓王ヲ葬ルハ、緩キナリ」とあります。

 以上の史実が『黄帝伝承原型』の「蚩尤最モ暴ヲ為スモ、能ク伐ツモノナシ。炎帝諸侯ヲ侵陵セント欲ス。諸侯ミナ軒轅ニ帰ス。軒轅乃チ徳ヲ修メ兵ヲ振ヘ、五気ヲ治メ、五種ヲdエ、万民ヲ撫デ、四方ヲ度リ、熊・羆・貔・貅・チユ・虎ニ教ヘ、以テ炎帝ト阪泉ノ野ニ戦フ。三タビ戦ヒテ、然ル後其ノ志ヲ得。蚩尤乱ヲ作シ、帝ノ命ヲ用イズ。是ニ於テ黄帝乃チ師ヲ諸侯ニ徴シ、蚩尤ト、タク鹿ノ野ニ戦イ、遂ニ蚩尤ヲ禽殺ス。而シテ諸侯咸軒轅ヲ尊ビテ天子ト為ス」となるのでしょう。

 すなわち『黄帝神話原型』に出てくる「蚩尤」の、前半部分の原型が、鄭武公・莊公であり、後半部分の原型が周公黒肩です。鄭武公・莊公と周公黒肩の合わせたものが、蚩尤となっているわけです。


『黄帝伝承原型』と『太伯の三譲』


さて『黄帝伝承原型』では「黄帝を天子と為す」となっています。しかし実際は帝位には就いていません。どういうわけで「黄帝を天子と為す」となったのか、分かりませんが。
『論語』「泰伯篇」の「子曰く、泰伯は其れ至徳と謂う可きのみ。三たび天下を以て譲る。民得て称する無し。」(子曰、泰伯其可謂至徳也已矣、。三以天下譲、民無得而称焉、)

と考え合わせますと、桓王から亡くなる前に、紀侯を養子にして、跡を継いで貰いたい。という要請があったのでしょう。
周王朝を往年の盛時に、返さねば先祖に申し訳がない、それが自分に課せられた義務である。と考えていた桓王は、「繻葛の戦い」に矢を射かけられ負傷した経験から。周王朝をもとの盛時に返すには、軍事的能力の優れた人物でなければ不可能だと考えたのでしょう。
当時、桓王の近くには名将とされるのは、「紀侯」以外にはいなかったのでしょう。だから、跡を継いでもう一度天下を平定して貰いたい。と望んだわけです。

しかし紀侯はそれを辞退したわけです。「私が責任をもって太子を、王位にお就けして。東周王朝を安泰にいたします。それは私が約束いたします。」と誓っていたのでしょう。
これが一譲です。

更に、王子佗(後の莊王)に、周公黒肩を引き渡したときに、王子佗から、亡き父王、桓王が希望していたように太伯(紀侯)に次期王位に就いて貰いたい、と要請があったのでしょう。

太伯(紀侯)はそれも辞退したのでしょう。それでようやく、王子佗が王位に就き、莊王となったのでしょう。
すなわち喪主が定まったので、故桓王のお葬式が執り行われたのでしょう。『春秋左氏伝』莊公三年(BC691)経文「五月、桓王ヲ葬ムル。」伝文「夏、五月、桓王ヲ葬ルハ、緩キナリ」とあります。

これが二譲目です。


故桓王のお葬式も立派に執り行いました。「王師」の実権も完全に取り返し、無事に新王にお渡ししました。

『黄帝伝承原型』では「黄帝を天子と為す」となっていますが。実際は帝位には就いていません。しかし正当な王位継承者である王子佗を帝位に、すなわち莊王に就けたのは、「紀候」の力でしょう。

これで東周王朝は安泰だ。と思ったのでしょう。
紀侯は山東地方の本国へ引き上げたのです。この時は当然、斉国に奪われた邑は取り戻すつもりであったでしょう。また数年前に斉に滅ぼされた『州』(紀の付庸国)なども再建するつもりで帰国したに違いありません。
それらの戦いには「王命」という錦の御旗がいつでも「周の荘王」から頂ける立場にありましたから。「太伯」の発する「檄」には、山東地方の諸国は勿論、さらに中原地方の国々の軍隊もそれに応じたでしょう。

ところがその翌年、『春秋左氏伝』荘公四年(BC690)夏の条に、経文「紀候、大いに其の国を去る」伝文に「紀候、斉に下ること能わず。国を以て紀季に與ふ。夏、紀候大いに其の国を去るは、斉の難を違くるなり。」とあります。
すなわち斉国と戦わずに、末弟に国を譲って大去されるのです。
この末弟に国を与えた事実が三譲目でしょう。

またこの時、大去される一行を見送った人々の記録が、『黄帝伝承原型末尾』すなわち『史記封禅書』の黄帝に関した部分、

「黄帝、首山ノ銅ヲ采リ鼎ヲ荊山ノ下ニ鑄ル。鼎既ニ成リ龍有リ胡髯ヲ垂レ下リテ黄帝ヲ迎ウ。黄帝上リ騎ル、群臣後宮従イ上ルモノ七十餘人、龍乃チ上リ去ル。餘ノ小臣上ルコトヲ得ズ。乃チ悉ク龍髯ヲ持ツ、龍髯抜ケテ墮ツ、黄帝ノ弓ヲ墮ス。百姓仰ギ望ムニ黄帝既ニ天ニ上レリ、其ノ弓ト胡髯ヲ抱キテ號ブ。故ニ後世因ッテ其ノ処ヲ名ケテ鼎湖ト曰イ其ノ弓ヲ烏號ト曰フ」

でしょう。
すなわち『黄帝伝承原型』と『史記封禅書』の「黄帝」に関した部分は、もともとは一つの記録であったのでしょう。


『史記封禅書』に出てくる、『龍』とは大舟のことでしょう。
すなわち「大舟」が迎えにきて『黄帝』が近臣とともに乗船され、はるか東海の彼方「蓬莱」「方丈」「瀛洲」の三島へ行ってしまわれた。ことを記録したもので、『黄帝伝承原型』の末尾にあったものでしょう。

BC697年に桓王が崩じられ、BC691年に同王を葬るまでの約六年間は、東周王朝の直属軍は『周公黒肩』に握られており。紀候は『周公黒肩』の反乱を防止するために、大兵を洛邑の近くに張り付けてニラミをきかせ、王家の人々を護衛していたのです。
その間、食料や軍隊を、山東地方から洛邑まで、黄河を遡り輸送していたわけです。その水上輸送の経験が、自信となって。日本列島への海上移遷を決意することになるのでしょう。
BC690年の時点で、日本列島まで大人員を海上輸送できる能力は、「紀国」以外には無かったのではないでしょうか。


神武東征の原事実

『日本書紀神武天皇の巻』では、「天皇、親ら諸の皇子・舟師ヲ帥イテ東ヲ征チタマウ。」となっています。
舟師とは水軍のことでしょう。BC690年の時点では、中国本土でも、すなわち東アジアでは水軍を持っていたのは「紀国」だけでしょう。他の国は水軍を必要としなかったのです。

このとき、紀候(太伯)(黄帝)すなわち『記紀神話』にいう「五瀬の命」に引率されて日本列島へ渡ってきた人々が、核となって後の「日本民族」を創り出すわけですが。
この人々はどれほどの規模であったのでしょうか。もちろん憶測ですが、試みに私見を述べておきますから、ご笑覧下さい。

まず、乗せてきた「大舟」はどのようなものでしょうか。後年の「遣唐使船」は、ちょうどこの時、紀候らが日本列島まで渡ってきたコースと、全く同じコースを往来しているわけですが。この「遣唐使船」は約百人乗りでした。その千五百年前の「大舟」ですから数十人乗り、仮に三十人乗りとしておきましょう。
次に「舟師」は何艘持っていたでしょうか。これも仮に三十艘としておきます。そうしますとこの「舟師」が運べる人々は九百人となります。
おそらく山東半島から朝鮮半島までは、何度もピストン輸送したのでしょう。

 一万人運ぶには十一度、往復しなければならないわけですが。その程度は常識的と云えるでしょう。あるいは、その数倍、数万人を運ぶことも不可能ではなかったでしょう。
輸送力はありましたが、日本列島での国づくり、という視点から考えますと、人が多ければよい、というものではないでしょう。先ず、日本列島での国づくりをはじめて、「めど」がついてから人を呼び寄せればよい、そのほうが安全だ、と考えるでしょう。
そのような事情から考えますと、一万人前後の規模であったのではないでしょうか。

朝鮮半島西岸に移ってからは、「舟師」は主として物資を運び、大部分の人は徒歩で南下したのでしょう。相当な長距離ですが、途中、魚介・鳥獣・食料になる野草等を採取しながら、何カ月もかけて歩いたわけです。
獣道があれば、それを利用し。道のないところは切り開き、野越え、山越え、歩き続けたでしょう。
朝鮮半島南岸に到着しますと、再び大舟に乗り、対馬を経由して日本列島まで渡ったのでしょう。

『日本書紀』によれば「椎根津彦」という『海導者』を得た。とありますから、海路の案内人を山東半島の突端か、朝鮮半島の西岸で見つけていたのでしょう。
「椎根津彦」は古代の「冒険野郎」というべき男で、手作りの小舟で日本列島まで冒険航海した経験の持ち主であったわけです。
そのような海導者がいたのですから、その年の冬が来る前に、全員が日本列島まで移っていたでしょう。

日本列島では最初に、根拠地とされたのは、福岡県の遠賀川河口でした。『古事記』には「筑紫の岡田の宮に一年座しき。」とあります。

日本列島へ上陸して、最初に直面した問題は、食料対策であったでしょう。かれらは穀物を種籾の状態で大量に携行していたに違いありませんが。この種籾はなるべく手をつけたくなかったでしょう。種籾には手をつけずに、当面の食料は各人の自給自足という方針であったに違いありません。、

彼らが根拠地としたのは、先ず「筑紫の岡田の宮」であり、次が「阿岐の国の、たけりの宮」(広島県府中町)で、その次が「吉備の高島の宮」(岡山市高島)でした。
それぞれ遠賀川。太田川。旭川の河口地帯です。
これから推測すれば、彼らは当面の食料は「魚介類」を主として生活したのでしょう。しかし彼らは食料に困窮して飢餓に苦しむことは、先ずなかったでしょう。
当時の日本列島は魚介にせよ鳥獣にせよ、無尽蔵に捕れたでしょう。先住の狩猟部族はいましたが、人口は少なく。魚にせよ鳥獣にせよ、人間への警戒心は強くなかったでしょう。また、狩りをする弓矢とか、釣り針、漁網等の用具類は先住の狩猟部族のものより、かれらののほうが優秀であったに違いありません。
また「木の実」「木の根」「野草」のうちのどれが食用になるか、という知識など、現代人と違って彼らは十分あったに違いないのです。
彼らの当面の生活は、採取経済、狩猟生活であったわけですが。将来は米を主食とするつもりで、稲作が国づくりの中心であったことも違いありません。

おそらく、当時の稲作農業は水辺の湿地に生えている葦などを引き抜き、その後を掻き均して、籾を直播きする農法であったのでしょう。
しかし、塩水が混じっているあたりは、稲作を行えませんから、ある程度内陸部に遡った地点の湿地、「天然の田」というような土地を探し求め、そこで稲作農業を始めたわけです。
 「岡田の宮」とは、この遠賀川河口地帯に仮の都をおかれた、ということで。遠賀川付近で一万人の食料を採取するのは、互いにバッティングするでしょうから、この付近は千人程度で、あとの九千人は九州各地に分散して同じような生活を開始したのでしょう。

『古事記』に「亦、其の国より上り幸て、阿岐の国の、たけりの宮に七年座しき。」とあるのは、台風の高潮のために、遠賀川下流域での稲作は壊滅したのであろうと推測されます。
それで広島県府中町付近へ移転したわけです。
「亦、其の国より遷り上り幸て、吉備の高島の宮に八年座しき。」とあるのは。やはり広島県府中町付近の稲作農業も、台風と高潮のために、全滅したからでしょう。

当時の日本列島は、海岸にも河川にも堤防がない時代です。高潮は相当な内陸部まで侵入したでしょう。おそらくは海抜十メートルぐらいでなければ安心できなかったでしょう。
しかし海抜十メートルの土地は、台風時や梅雨期以外は、たいてい乾燥しているわけで、そのままでは稲作には適しません。
すなわち高潮に安全な土地で、稲作農業を営もうとすれば、「人工水田」を開発せざるを得なかったのです。
 わが国の稲作農業は、種籾とか、石包丁とか、木製農具は中国大陸から持ち込んだものですが。「人工水田造成技術」は日本列島へ渡ってきた後に、独自に開発したものでしょう。


周人(当時の中国人)は発達した「土を突き固める技術」を持っていました。
西周時代の古典『詩経』などには、「テイ・カン」という言葉がよく出てきます。辞書によれば「テイ」は牆の両端に立てる木であり、「カン」は牆の両辺に立てる材。とあります。
「テイ・カン」を組み合わせた中に土を入れ突き固める、いわゆる「版築工法」の道具ですが。軍隊の必須携行品であったと云います。当時の人々はこの土を突き固める熟練した技術を、いわばお得意芸としていたのです。

「必要は発明の母」とか「失敗は成功のもと」との格言がありますが。
日本列島での度重なる失敗と、二度と中国本土へは戻れない。日本列島での稲作農業をどうしても成功させねばならない。という切羽詰まった必要性と、持ち合わせた「版築工法」の優れた技術が「人工水田造成技術」を生み出したのでしょう。


 黄河流域は、当時、あらゆる面で先進地でした。もちろん、農業についてもこの地域は最先進地帯でした。しかし「人工水田を造成しよう」とする発想だけは芽生えなかったようです。

この時代は金属製の農具や土木工具もなく、土木技術も幼稚な時代でした。人工水田は底面を水平に造成しなければなりません。その作業がすでに困難で、当時としては高度な技術力を必要としたでしょう。
もちろん、底面も側面も水漏れしないように加工しなければなりません。一般の畑と違って、造成するには高度の土木技術と膨大な人力を投入せねばならなかったのです。

農業先進地帯である黄河流域でも、他の五穀を栽培するには、そのような設備投資を必要としないのですから。稲作を行うにも、膨大な設備投資をするという発想は出なかったわけです。
そのような過大な設備投資を必要とするのであれば、稲をやめ他の五穀を栽培しようと考えるでしょう。

黍や粟を栽培するには、地面を木製の農具で鋤き返して、キビやアワを播いたわけです。稲も同様に湿地を木製の農具で掻き均し、籾を播いていたのでしょう。それが当たり前の考えでしたから、特別な設備投資をしてまで、稲を作ろうとは考えつかなかったのでしょう。

日本列島で「人工水田農法」を考えついたのは、日本列島の特殊な事情からです。
大和盆地の橿原の地へ移ったのは、先ず「高潮」の心配がない土地であること、でしょう。彼らは高潮の被害をさんざん味わってきましたから。大変な労働力を投入して、「人工水田」を造成しても高潮にやられるようでは、たまらない。と考えたわけです。
その点、大和盆地であれば、間違っても高潮の被害を受けることはありません。

また内陸部で「人工水田造成」に適した平坦な地が広くあるのは大和盆地が第一であったのでしょう。


おそらく最初は高潮の被害を防ぐのが目的であったのでしょうが。「人工水田」による稲作が進むと。「天然の田」より「人工水田」のほうが、農耕法にも工夫を働かせる利点があり。収穫量も多くて、しかも安定することが分かってきたのでしょう。
それで膨大な労働力を投入しても、「人工水田」のほうが有利だ、ということで。云わば古代の「稲作革命」があったのでしょう。


わが国の稲作農業は、紀元前七世紀の初期に始まったわけですが。それは湿地( 天然の田)を見つけて、そこに種籾を播く、という原始的な稲作農法でした。それは元々彼らが中国本土で営んできた稲作農法であったのです。これが従来の農法であったのです。

筑紫の国や安芸の国では、河口近くの稲作は収穫目前になって、台風による高潮により壊滅するという悲劇にあい、それぞれの土地に断念して、次の土地に移ったわけですが。それぞれの地方の河川の、中流や上流にも湿地(天然の田)はあるわけです。それらの中流上流の湿地(天然の田)では高潮の被害は受けません。
ただ面積が狭小で大人数を養うことはできませんが。放置しておくのも勿体ないから、本隊が移遷しても、一部の人々を残して、今まで行ってきた原始的な稲作農耕を続けさせたわけです。

これはこれで、初期投資が要らないという利点が有り。「天然の田」が狭小であれば、飛び飛びに点在する「天然の田」を何枚も耕作すれば良いわけで。「天然の田」の枚数を増やすのは、それほど苦労しなかったでしょう。
生産が増大すれば当然、子孫もそれに比例して増えますから。それらの地方でも数世紀もすれば、「天然の田」を耕作する人々も相当な人口になっていたでしょう。


さて本隊は『古事記』に「吉備の高島の宮に八年座しき」とあるように。大和の橿原に入る前に、吉備の国で長期間、滞在したわけです。
おそらくこの地で「人工水田造成法」を完成させたのでしょう。幾たびも試行錯誤の末に、「これならいける」と見通しがついたのでしょう。

偵察隊を各地に送って、地形を調べたうえで、「大和盆地が最適」と決定しました。
勇んで吉備の国を出発し、生駒山を越えて大和盆地へ入ろうとされますが、孔舎衛坂(現大阪府東大阪市日下)の戦いで、五瀬命が負傷されます。
それで進路を転じて、紀国へ迂回しますが紀国の竈山で薨去されます。『日本書紀』「神武即位前紀戊午年五月」に「進みて紀国の竈山に到りて、五瀬命、軍に薨りましぬ。因て竈山に葬りまつる」とあります。
当時、日本列島内に「紀国」というような地名(国名)があるわけがありませんから。これは五瀬命が治められていた『紀国』の名を採って同命が葬られた地に命名したのでしょう。

「紀国の竈山で薨去された」ということは、そのときの本隊は、現在の「紀ノ川」を遡り、紀の川上流から大和盆地へ下りて行こうとされたのでしょう。「神武東征」の全行程から見れば、ほとんど99%踏破しているわけで、あと1%のところで薨くなるわけです。


さてこれまでの、すなわち吉備の国を出発して、五瀬命が紀国の竈山で崩くなるまでの、コースは現在考えても理解できます。
この本隊は大和盆地に入植しようとしたのです。吉備(岡山)から海路で大阪湾まで来ました。そこで上陸し徒歩で大和盆地を目指すわけです。生駒山付近で山越しをしようとして、現在の東大阪市日下付近を通過中、「長髓彦(ながすねひこ)」の放った矢に負傷されるわけです。
『記紀』の記事から考えますと、「長髓彦」らは先住の狩猟部族であったのでしょう。
凶悪な狩猟部族が潜んでいる、このあたりの通行は危険だと考え。引き返して大舟にのり、南へ迂回します。現和歌山市付近で上陸して、紀の川に沿って遡り、紀の川上流から大和盆地に入ろうとするのですが。和歌山市付近で五瀬命は、矢傷が因で崩くなるのです。

ここまでは合理性のあるコースです。当時は道はありません、日本列島は原生林で覆われていた時代です。それを前提にして考えれば、「よく調査していたな」と感心するくらい合理的なコースです。
しかしその後がいけません。紀国竈山から紀の川に沿って遡り、紀の川上流から大和盆地に入いるべきなのに。
遠く、熊野(現新宮市付近)まで南下して。熊野から険しい山岳地帯を縦断して、吉野地方(すなわち紀の川上流)へ引き返し、大和盆地へ入っていく。
というコースは無茶苦茶です。何故、熊野まで迂回したのか、その目的は誰にも分からないでしょう。

『日本書紀』によれば、この熊野の地で、五瀬命の弟である「稲飯命」や「三毛入野命」が、どちらも海の中へ去られます。
続いて、この両命と別れられたのち、「神が毒気を吹きかけられたので、神武天皇以下ことごとく、おえし伏す(病み伏す)。」ここに「熊野の高倉下」という者が、夢を見ました、と一振りの剣を天皇に奉ったところ、「天皇、たちまちに寤めて曰く『予なんぞかく長眠しつるや』とのたまう。つぎて毒に中りし士卒、悉くにまた醒めて起く。既にして皇師、中洲に趣かんとす。而るを山の中険絶にして、また行くべき路無し。云々」
という記事があります。

ここは『記紀』編纂者たちの誤解釈があったのでしょう。「神武天皇以下ことごとく、おえし伏す」は五瀬命が亡くなられた直後からでしょう。五瀬命が亡くなられて、全軍が気力を喪失してしまったのです。
「大和盆地へ入って、理想的な農業国家を建設しよう」という夢など、どうでもいい。と虚脱状態に陥ったのでしょう。神武天皇以下、大舟のなかに病み伏し、船頭に指図する気力もなくしたのでしょう。船頭も仕方がないから、そのまま大舟にゆられて南下し続け、熊野までさまよって行ってしまったのが実情でしょう。


五瀬命の弟である「稲飯命」や「三毛入野命」は。もう駄目だ、日本列島での新国家建設は失敗に終わる。と判断されたのでしょう。同じ死ぬのであれば、故国の土を踏んで死にたい。と神武一行と別れて、引き返されたわけです。

その後、中国本土へ帰られた両命が、気を取り直し、紀国の遺民をひそかに呼び集め、長江の南側へ移遷して『呉国』を建てた。という推測は本HPの前章「大和朝廷がルーツを発見できなかった原因(前)」の『太伯』の項で述べました。


すなわち、熊野まで行ってしまったのは、理由も目的もなく、ただ呆然とさまよって行ったのです。
「五瀬命」は、イスラエル民族を率いたモーゼのような存在であったのでしょう。
この方に強い求心力があったから、多くの人々が苦難に耐えてついてこれたのです。この偉大な方について行けば、間違いない。と全員が信じていたから、ここまで来れたのです。

その杖とも柱ともたのむ、モーゼのような中心人物に亡くなられて残された全員、心細くてただ大舟にしがみつくように乗って、熊野までさまよって行ったのでしょう。、

しかし神武天皇は立ち直られました。


すなわち「稲飯命」や「三毛入野命」が、絶望して中国本土へ引き返された後も。無気力状態であった神武天皇も、「高倉下」という男の進言を機に立ち直ったのです。
やはり神武天皇は立派な指導者だったのです。五瀬命が亡くなられた後は、自分が皆を引っ張って行かねばならない、と責任感を取り戻されたわけです。

『日本書紀』こよれば、
「天皇、たちまちに寤めて曰く『予なんぞかく長眠しつるや』とのたまう。つぎて毒に中りし士卒、悉くにまた醒めて起く。既にして皇師、中洲に趣かんとす。而るを山の中険絶にして、また行くべき路無し。云々

中洲とは大和盆地でしょう。大和盆地へは少しでも早く入りたい。それには熊野から大和盆地への最短コースを行きたい。山は険しくとも恐れることはない、真っ直ぐ行こうと考えたのに違いありません。
神武天皇の一行はこの熊野地方の地理は知らなかったのでしょう。知っておれば、大舟で紀国竈山付近まで引き返し、そこから徒歩で紀の川沿いに大和盆地を目指したでしょう。
もっとも当時の人々は健脚で、山中の踏破など、それほど苦にならなかったのかも知れません。

さてこのあたりの地理を知らなければ最短距離である山の中を突破しようとするでしょう。そこで「山の中険絶にして、また行くべき路無し」ということになるのですが。途中で「八咫烏の道案内があった」という有名な逸話などで知られているように、この難路を突破して大和盆地に入られ、橿原の地で初代天皇の位にお就きになるわけです。


          日本国内での伝承


それでは倭国の国内では「大伯」はどのように扱われていたのでしょうか。
梁書などに、「倭者自云太伯之後」とある点から考えますと、聖徳太子のころまでは、この「太伯」を倭国の最高祖神として祀っていたのでしょう。


現在の記紀神話から考えますと、大和朝廷の最高祖神として祀られるべき神は、大和の橿原宮で、初代天皇となられた「神武天皇」であるのが普通です。
神武天皇は、徳川幕府の「徳川家康」。藤原氏の「藤原鎌足」と同じような立場となる方で、徳川氏や、藤原氏が「家康」や「鎌足」を最高祖神として祀ったように。
天皇家を開いた「神武天皇」を「最高祖神」と祀っているはずですが。実際には多大の尊崇を捧げられてはいますが、「最高祖神」としての扱いは受けていません。

一方、天皇家の祖神を祀る『伊勢神宮』には、天皇家の最高祖神である「天照大神」を祀る「伊勢内宮」と、同格の扱いを受けている「伊勢外宮」があります。
しかし『記紀神話』では、この「伊勢外宮」にお祀りする神は、よく分からないのです。

それから考えますと、神武天皇は即位されるに際し。崩くなられていた父王、中国本土では「太伯」と呼ばれていた方を、倭国を開いた開祖、「最高祖神」として祀られたのではないでしょうか。
おそらくその後、崇神天皇のころまでは、この神を「最高祖神」として宮中に祀っていたのでしょう。またその「内宮」として「天照大神」も祀っていたのでしょう。
『崇神天皇紀』六年の条にある「天照大神・倭大國魂」二~のうち。「倭大國魂」とは倭国の最高祖神として「太伯」を神と祀ったものであったのでしょう。

崇神天皇の時代は、すなわち中国史では「秦の始皇帝」の時代であった、と推測されますが。倭国は海外からの侵攻が現実にあり得ると考え、備えたのでしょう。天皇とともに、祖神の御霊や三種の神器を同時に捕らえられることを、恐れたのです。
万一、戦いに敗れて、天皇が外敵に捕らえられる事態となっても、「祖神の御霊」や「三種の神器」が、残されておれば。皇太子を次期天皇に擁立して「祖神の御霊」や「三種の神器」を奉じて倭国は滅亡を免れる、という考えがあったのでしょう。
そういうわけで「祖神の御霊」や「三種の神器」は宮中を出て、何カ所の地を廻った後、伊勢の地に落ち着いたのでしょう。
この伊勢の地に定めたのは、大和が敵の手におちれば、新天皇が「祖神の御霊」や「三種の神器」を捧持して、船で愛知県やさらに東国へ逃れ。外敵を日本列島から追い出すまで、何十年でも戦い続ける、という戦略であったと思われます。


何度も述べましたように、国史編纂を発意されたのは、聖徳太子であったでしょう。
「小野妹子」や遣隋留学生・留学僧を送られた最も重要な目的は、「太伯の実像調査」と「発祥地の確認」であったに違いありません。
それまでは、中国に対しては「倭者自云太伯之後」(梁書倭傳)と言っていた点から考えますと。彼らは偉大な「太伯」の名前を出せば、中国人にはその伝えを知っている者がいるに違いない、と安易に考えていたのでしょう。

しかし当時の中国では「太伯」についての正しい伝承は既に失われていたのです。

 それ以後、『帝紀・旧辞』と呼ばれる古資料を調べるとともに、中国歴史の調査を進めてきた大和朝廷は、倭国の開祖は「太伯」であるという旧来の伝承は誤りである。とついに考えを変えるに至ったわけです。
また「伊勢神宮」の祭神「倭大國魂」が、歴史的にどのような功績があった神か、ということも不明となったわけです。したがって「伊勢神宮」の主神は「天照大神」の方が相応しい、と変更を余儀なくされました。
しかし永い間、伊勢神宮の主神として崇めてきた神を、「天照大神」の従属神ともしづらい、ということで。同格の神として「外宮」に祀るということにしたのではないでしょうか。



トップページへ