第四章    天孫降臨と国譲り神話の原事実


『記紀神話』のなかで、「天孫降臨の段」が最も不合理で。敗戦後、占領軍にこの点を非科学的だと強く指摘されたことは前にも述べました。
しかし、この点は占領軍に指摘されなくとも、我が国の歴史学者にもよく判っていたのです。天皇家のご先祖とはいえ、天から雲を押し分けて、地上に下って来る、というような話が不合理であることぐらいは、大学の教授や助教授で解っていない人はおりません。

これは現代の学者だけではなく。『古事記』や『日本書紀』を編纂した人々にも解っていたに違いありません。彼等も、種々の記録や日本列島の地理等を勘案したうえで、はなはだ不合理であるが、そう判断せざるをえなかったのでしょう。
さて彼等が判断を誤った最大の原因は、古代において「中国語」が大変化していた。ことである点も前に述べました。
しかしこの「天孫降臨」については、中国本土の地理的状況が激変していた。ことがそれ以上に判断を難しくしたに違いありません。
当時の地理状況を見てみましょう。


中国史の『春秋経』や『史記』にあらわれる『紀國』の初代君主が、お国入りされた事情が。日本史での『記紀神話』における「ニニギノミコト」の天孫降臨となっている、と推測されますが。時代はいわゆる殷周革命と現在呼ばれている、殷帝国が倒れ、周王朝が始まった直後であったと思われます。
これは紀元前十一世紀と推測されています。
当時、黄河は現在の河口よりはるか北方の天津の近くで渤海に注いでいると推測され、現在の黄河の流れているあたりは済水が流れていたと推測されています。
これは「中国古代史」や「黄河の歴史」に関した著作についている参考地図などは、ほとんどそのようになっていますから、ご覧になればわかります。
近いところで一例をあげますと、黄河物語。旺文社刊P167に

という図が載っています。
他にもNHKTV『大黄河』取材班の。田川純三著『大黄河を行く』中央公論社刊。にも同様の図があり、(BC2278〜BC602)と年代まであります。
これには『黄河変遷史』(岑仲勉、1957年、北京人民出版社)による、とあります。

また『中国歴史の旅』P139、竹内実著(朝日新聞社刊)などにも同じような図があり、「禹河故道」(BC2278〜BC602)とあります。これには「原図、李鴻杰ほか『黄河』(中国地理叢書)科学普及出版社、1992年と注がありますから、それから引用されているのでしょう。

これらから考えますと、中国ではこの考えは定説となっているのでしょう。
しかしBC2278〜BC602の1676年間、河道が一定であった、ということはありえないでしょう。黄河は暴れ河として有名で、過去二千五百年間に堤防の決壊が約千五百回、大きな河道の変化二十六回、歴史に記録されていると言います。これは黄河は世界でも飛び抜けて含有泥土が多いからです。
しかし三千年の昔も、その含有泥土は大差なかったでしょうから。二千五百年間に二十六回の河道の変遷があったが。その前の千六百七十六年間には河道の変化は一度もなかった、とは考えられません。


私はこの方面には不案内で、BC2278という年代がどのようにして出てきたかは知りません。しかし憶測しますと根本的な資料は中国最古の地理書とされる『書経禹貢篇』でしょう。
『禹貢』に「河(黄河)を導き、積石より龍門に至り、南して華陰に至り、東してO柱に至り、又東して孟津に至り、東して洛Qを過ぎ、大Pに至り、北して降水を過ぎて、大陸に至り、又北に播して九河と為り、同して逆河と為りて海に入る。」とありますが、これが根本的な資料であろうと思われます。
「大P」とは河南省濬県東南、また河南省武陟県といわれています。黄河はこのあたりから北に曲がっていたのでしょう。大陸とは大陸沢(河北省鉅鹿にあったという巨大な湖)のこと。
しかしこの『禹貢篇』は、おそらく戦国期の状況でしょう。


『禹貢』に続く地理書は、前漢の司馬遷の著作『史記』「河渠書」ですが、それには「夏書に曰く、禹は鴻水を抑える十三年、……河を道くこと積石より龍門を歴、南華陰に到り、東し砥柱を下り、孟津RQに及び、大Pに至る、是に於いて禹、河の従て来る所高く水湍悍にして以て平地を行くこと難し、數々敗を爲さんと、乃ち二渠を厮ちて、以て其の河を引き、北のかた之を高地に載せ、降水を過ぎ、大陸に至る。播して九河と爲し、同じく逆河と爲り、海に入る。」「九川すでに疎通し、九沢すでに灑い、諸夏安定し、その功三代に及ぶ。」(北載之高地、過降水、至于大陸、播為九河、同為逆河、入于海、九川既疏、九沢既灑、諸夏艾安、功施于三代)
とありますから、司馬遷の時代には、黄河の流れを「大P」のあたりで北に曲げたのは、古代の帝王「禹」であると考えられていたのでしょう。

また前漢の時代にも、そのあたりで北折していたに違いありません。
同じく『史記河渠書』には、「今の天子の元光の中(年間)、河、瓠子(河北省濮陽)に於いて決し、東南、鉅野に注ぎ、淮泗に通ず。……中略……河、瓠子に決してよりのち二十餘歳、……卒数万人を発して瓠子の決を塞がしむ。……而して河を北に道き、二渠を行きて、禹の旧跡に復す。」とあります。
元光年間とは(BC134〜BC129)すなわち『史記』の著者司馬遷の同時代記録です。
すなわちこのとき、黄河が決壊して東南に流れだし、山東省の鉅野に注ぎそこから溢れ出した水は淮河、泗水に通じたのです。その二十数年後、兵卒数万人を動員して、瓠子の決壊場所を塞ぎ、禹が導いたと伝えられる旧河道に北流させたのです。

これから考えますと、前漢時代には黄河は河南省から河北省へ北流していたことは分かります。おそらく、戦国期にはそうなっていたのでしょう。
また、司馬遷のころすなわち前漢時代から、この考えが中国知識人の常識、定説となっていたのでしょう。
もちろん、我が遣唐使や遣隋使にしたがって、留学生が中国を訪れた隋唐の時代も当然これが定説・常識であったわけです。

しかし前漢時代より、更に千年も遡った「殷周革命」のころは少し状況は異なっていたと思われます。当時の状況を推測してみましょう。


中国大陸の東部に広がる、華北大平原は、周知のように黄河による沖積平野です。
地質学の研究を採り入れた、近頃の「歴史書」の解説などによりますと、
「中国の古代文明が発展した黄河中流の黄土地帯ができたのは、地質の時代では新生代第四紀の、洪積世といわれる時代の終わり近く、いまからおよそ十五万年ほどまえである。
そのころ、華北の地が乾燥して草原となり、そこへ、西北から風によって運ばれてきた黄土が堆積して、現在の黄土高原ができたのである。
この黄土は、水に浸食されやすい性質をもっているため、黄土高原のあいだを流れる黄河やその支流はつねに大量の黄土をふくんで流れ、それが下流に沈殿して、河床はしだいに高くなり、雨期には河岸を破壊して氾濫し、広い地域にわたって黄土を堆積させる。華北平原はこうしてできた平原であり、このような沖積平野ができあがったのは、およそ、二万年前で、その後もたえず黄土の堆積はくりかえされてきた。」(講談社版、図説中國の歴史第1巻28ぺー28ページ、)
とありますが。別の本では、「地層資料によると、二、三百万年前から黄河はここ(鄭州付近)で正三角形に沖積デルタ地を作っていて、華北大平原の主体となっている。(黄河五千キロを歩く、揚聨康、旺文社刊『黄河物語』P30、1986年刊)
というような説もあります。
十五万年と二、三百万年では大違いですから、このへんはまだ未確定なのでしょう。

また「最後の氷河期がおわったのは今から1万年ほど前である。その寒冷期には高緯度地方や高山帯の氷河の拡大にともなって海水準が大きく低下していた。現在の渤海や黄海はすべて陸化しており、東シナ海もその西半分には中国大陸が大きく張り出していた。長江(揚子江)の河口は九州のすぐ西にあったのである。」「ところがその後、紀元前4000〜3000年をピークとする温暖紀(ヒプシサーマル期)に向けて気温は急速に上昇する。特に紀元前6000年から4500年にかけての時期の海面上昇速度はきわめて速く、年間、1.5〜2cmにも達したといわれている。中国沿岸部だけでも現在の日本列島ほどもあろうかという広大な陸地が数千年のうちに水没してしまった。」『中国古代文明の原像33ページ』(アジア文化交流協会1998年刊)
という説もあります。


これらの解説を総合しますと、大古、地球上に気候の変化があり、乾燥地帯となった西北部から風によって運ばれてきた黄土が堆積して、現在の黄土高原ができました。
その黄土が黄河により押し流され、海底に沈殿し、現在の華北大平原ができたわけです。

これから考えますと、大古には、黄河の河口は、現在の河南省の省都である「鄭州市」の上流近くであったのでしょう。
鄭州市より東は海であったわけです。
黄河の泥土が10数万年から二、三百万年の間に沈殿し、さらにその上に沈殿し、次第に海上に姿をあらわし。かつて島であった泰山や山東半島が中国本土と地続きになり、更に渤海や黄海も陸地となっていたものが、海面の上昇とともに水没し、陸地も縮小し、現在の華北大平原の形になった。と推測されているわけでしょう。

そこで問題となりますのは、『紀國』が建てられた時代、すなわち現在『殷周革命』などと呼ばれている時代、(紀元前十一世紀)の地理事情はどのようなものであったのでしょうか。

それには先ず現在の黄河の泥土が海面を埋め立てている状況が、どのようなものであるか、を見ておきましょう。


NHKTV『大黄河』取材班の黄河河口観察記録がありますから、その中から適宜抄出しておきます。

山東省の省都済南から東北へ150キロ、陸路を東営市に至る。黄河河口に向かうための拠点となる町だ。
ここは黄河が運んできた大量の泥土が堆積してできた大三角州のただなかにある。

『黄河変遷史』(岑仲勉、1957年、北京人民出版社)によれば、
河南省開封付近を要として、黄河は過去二五〇〇年間に二六回も大きく河道を変えてきた。十二世紀末までは何度か河道を変えながらも基本的には渤海に注いでいた。それが、金の明昌五年(1194年)、河南省陽武(現在の原陽県)で大決壊がおこると、黄河は南に流れを変え、江蘇省徐州から淮河に合して山東半島の南の黄海に注いだ。それから六六一年後、清の咸豊五年(一八五五年)農歴六月中旬、河南省銅瓦廂で決壊すると、黄河は再び北に流れを変え、当時、山東北部を流れていた大清河の河道をのみこんで渤海に注いだ。これが現在の河道である。
こうして、黄河河口三角州の形成は大きく二つの時期にわけられる。つまり,黄河本流がふたたびもどってきた一八五五年以前とそれ以後で、中国では前者の期間に形成されたものを「古三角州」、それ以後のものを「近代三角州」とよんでいる。
一八五五年といえば、わずか一四〇年ほど前である。その間に三角州、いわば新しい陸地はどれほど広がっているのか。山東省黄河河務局東営修防処の資料『黄河河口』によれば、大要つぎのようである。(データはいずれも調査が行われた一九八二年のもの)。
まず、黄河河口から八〇キロ上流に設けられている黄河水利委員会利津水文站の実測によれば、解放後の一九四九年から一九八二年までの三四年間の年間平均流泥量は一〇億七〇〇〇万トンに達している。これが三角州形成のもとになっている。
つぎに、関係するさまざまな歴史資料にもとづく実地調査、それに航空写真を判読した結果、を計算すると、それぞれ年平均で海岸線は〇・二八キロ伸張し、二三・八平方キロの陸地が新たに形成されていることになる。これは東京都の平均一区分の面積に相当する。


すでに記したように、河南省東部の鄭州から開封に至る天井川地帯──黄河のアキレス腱が切れると、黄河は大きく河道を変えた。それと同じ現象が河口地帯でもおこっている。
(中略)
東営から東へ黄河河口をめざす。やがて左手堤防の下ま近にこぢんまりした村落が見えてきた。
墾利県西宋郷趙家屋子。黄河デルタが、いわば本格的な陸地となってから、できた新しい村落だ。黄河最下流域の村の一つで、もうこの先にほとんど村落はない。
趙家屋子をすぎると、それまで東北に流れていた黄河は、東に流れを変える。黄河は河幅をひろげ、一キロを越した。そこが建林の渡しで、ここから先、堤防の上の道もほとんど途絶え、車で進むことはできない。
黄河最後の渡しということであったが、その先小一時間ほど歩いたところの下流にもう一つの小さな渡しがあった。その名も「最末」とよばれる渡し場で、長さ五メートルほどの箱型の鉄鋼船があった。平底で、水深の浅い流れでも航行できる。河口の取材にはこのうえない条件を備えている。この船をチャーターする。
「最末」から河口までは四〇キロだという。下るにつれて黄河は河幅を増し、ゆうに二キロはこえている。やがて船頭は竹竿で慎重に水深を測っている。小一時間もすると、せいぜい六〇センチ、時には四〇センチとなって、さすがの平底船の航行にも黄信号がでた。
「最末」の渡しからおよそ三〇キロは下ったという。河口まであと一〇キロということになるが、竹竿で水深をはかりながら微速で前進と後退をくりかえすことおよそ一時間、ついにそれ以上の前進は無理と判断され、岸にあがってベースキャンプを設営する。
岸といっても、むろん堤防はすでにない。水辺にも陸にも葦が生えている。船も完全に「接岸」することはできない。スタッフは用意の長靴にはきかえ、水の中に降り立ってリレー式に撮影機材やキャンプ用品などを「揚陸」する。
(中略)
翌日、付近で漁をする漁船をチャーターし、河口へむかう。そのうちに、黄河はいよいよ黄濁していき、しだいに河幅を広げ、やがて両岸は見えなくなった。
キャンプ地から一時間半、一五キロほど進んだころ竹竿で慎重に水深をはかっていた船頭さんが「ダメだ」と言って首を振った水深は四〇センチほどになっており、さすがの平底の帆船もそれ以上は進めないというのだ。そして帆をおろして、
「ここが河口だ」と船頭さんが言った。だが、指さした方向を見ると、にわかには信じられなかった。海などはどこにも見えない。それどころか、目の前にはただ黄色い泥土の干潟が茫漠と広がって黄河の流れをせきとめているだけだった。
「これが本当に河口なのか」何度か確認したが、船頭さんの答えは変わらなかった。
なんと、黄河は行き止まりになっていたのである。河口には、黄河自身が運んできた膨大な泥土が堆積して広大な干潟が形成され、河と海が隔離されているのだ。
信じられないまま、ともかく干潟に上陸することにする。
帆船は干潟から一〇〇メートルほど手前に止まっていた。そこから先は浅くて近づけないのだ。帆船からゴムボートに乗り移り、干潟に向かう。
(中略)
私たちは干潟のあちこちを歩いた。黄河の「波打ち際」から渤海まで、干潟は広いところで一〇キロはあるという。
午後一時、はるかかなたの渤海が泡立って見えた。満潮の時が来たのだ。
やがて私たちの目の前で、泡を浮かべた渤海の潮が、黄河の黄濁した水に迫り、ついに一つに合した。
(中略)
こうして黄河は満潮時にはじめて渤海と合し流れ込むのであった。
だが、群を抜いて世界第一位の含有量をもつ泥土は、上流から休むことなく運ばれて来る。年間、一〇億七〇〇〇万トンも運ばれてくる泥土のために、河口からおよそ一〇〇キロまでの上流の河床をせりあげ、相対的に水位をあげる。そして末端の河口の干潟もしだいに厚みと高さを増し、幅を拡げ、やがて満潮時にも没しなくなり、黄河は完全に行き止まりになる。そうなれば当然氾濫する。

田川純三著『大黄河を行く』中央公論社刊、P215〜P232 より抄出。


揚聯康著『黄河五千キロを歩く』(旺文社刊、黄河物語、P32)にも、おなじような体験談が載っています。
「ちょっと信じがたい事だが、滔々と流れていた黄河が、河口あたりでは完全に干上がって河源と同じようになっていた。河底を行ったり来たりすることができるのだ。入海口近くになってやっと水が見えるようになる。
清水河五公里断面というところに、ふたりの漁師が住む掘っ立て小屋があった。そこから水面が急に開け始めたが、水をなめてみるとまだ塩気はない。「S門砂」(門をさえぎる砂)の約一キロ先からは塩気があって、しかも南北に砂堤が盛り上がっていた。ここが淡水生物と鹹水生物との境目というわけだ。
水流からみると、黄河の河口は、一方は黄色を呈し、一方は青色を呈していた。水底の地形から見ると、河流から堆積してできたT門砂体があって、そこの水深は一メートルにも満たない。
わたしたちは、目の前の広々した水面と、われわれを待っている船をT門砂で見たとき、黄河の河口は目の前だと意識した。わたしたちは喜びの感情を抑えきれず、水面に向かって一目散に駆け出した。ついに万里の黄河の終点、河口入海口にたどりついたのだ。」


田川氏が見た、黄河河口の広大な干潟を、中国人は「S門砂」と呼ぶのですが。これは我々日本人には、現地で見なければ分からない代物です。
日本の河口にある干潟とは桁違いの巨大な干潟で、あの大黄河を遮ってしまうわけです。おそらく中国人でも現地を知らない人にはこの現象は分からないのでないでしょうか。

「S門砂」干潟が次第にたかくなりますと、当然その手前の黄河下流域には水害が発生します。それを防ぐために、現代中国では新しく河道を掘削して河口の付け替え工事を、定期的に行っているそうですが。太古の時代は人間も少なく、そのような工事をするわけはありませんから、「S門砂」は次第に高くなって、いわば砂で築いた堰堤、ダムのようになりますが、前に引用した『大黄河を行く』にもありますようにその干潟(S門砂)は奥行きは十キロもあるわけですが、なんといっても砂で築いたものですから、高さはそう高くはならなかったでしょう。おそらく海面から数メートル乃至数十メートルの低い丘陵であったでしょう。
当然その背後から黄河の膨大な水量が圧力となってきますから、堰きとめたS門砂の弱い部分が決壊して新しい河口となり、黄河の水は噴出します。やがてその前方数キロ、乃至十数キロ前方の海中に新しく「S門砂」干潟を形成するわけです。
これは現在の渤海に面した河口ですが、太古には、現在の鄭州市あたりが黄河河口であったわけですから。鄭州の付近で始まった「S門砂」造成作用は、このような営みを繰り返しながら、しだいに三角州を拡げて行き、地質図で見れば、黄河から排出された黄土は北は天津あたりから、南は揚子江の河口付近まで、沖積平野を形成したわけです。
鄭州付近と渤海海岸近くとの間には、ほとんど標高差のない平坦な地勢ですが。それはこのようにして形成されたわけです。ですから河川の整備が行われていない時代は、随分、排水が悪かったでしょう。

おそらく河道変遷図にある古黄河と、現黄河のあたりを流れていたといわれる済水、それに挟まれた地域は『書経禹貢』に「済・河は惟れT州」とあるT州ですが。この広大な地域が当時の黄河の河川敷であったのでしょう。

この地域からは殷帝国時代以前の遺跡遺物は出土しません。殷帝国時代だけではなく、西周時代の遺跡も殆どありません。人類が住めない環境だったのでしょう。
おそらく出水時には、この広い地域は満水となり、出水が終わった後も水はなかなか引かず、乾期になっても大小の湖、沼、池あるいは湿原、が至る所に有り。そのあいだを黄河の流れが曲がりくねって流れている状態であったでしょう。。


『書経禹貢篇』に「「河(黄河)を導き、積石より龍門に至り、南して華陰に至り、東してO柱に至り、又東して孟津に至り、東して洛Qを過ぎ、大Pに至り、北して降水を過ぎて、大陸に至り、又北に播して九河と為り、同して逆河と為りて海に入る。」

のうち「逆河」とは何か、という点がよく分からず、古来、問題とされていますが、未だ整合性のある解釈はありません。しかしこれも黄河河口の状況を考えれば「逆河」の疑問は氷解します。
「逆河」とは「迎え河」のことです。当時の渤海海岸には低い丘陵が連なっていたのです。当然その内側の窪みは湖や沼となっていました。海岸の丘陵に多くの河口を堀り、内側の湖沼から水を抜き、干拓したのでしょう。そのうえで更に内陸部へ溝を掘り進めました。
こうして海岸側から掘り進めた河を「逆河」と呼んだのでしょう。もちろん干拓した土地は農地に生まれ変わり、人々は山東半島や大行山脈の麓あたりからこの低地に移り住みつき始めたわけです。
『禹貢』T州の条にいう「済・河は惟れT州。九河は既に道し。雷夏は既に澤し。雍沮は会同す。桑の土は既に蠶し。是に丘を降りて土に宅る。」
というのは「春秋時代」に入ってからでしょう。干拓しなければ、人々は住みつけないし。人々が増えなければ、干拓も進まないわけです。


それでは、当時の済水、現在の黄河の南側はどのようであったでしょうか。
こちらはT州、すなわち北側と違って殷帝国時代以前の遺跡はあります。例えば梁山から殷時代の立派な青銅器が出土しているのは、よく知られています。しかしここは太古から海に浮かんだ島であったでしょう。そのような土地以外は、北側とよく似た状態であったでしょう。このあたりは「大野沢」「荷沢」「U沢」「雷夏沢」というような有名な湖・沼があったと伝えられていますが。それらは春秋以後の沢名で、西周以前はこの地域全体が、広大な沼沢地帯であったのでしょう。

『孟子』滕文公上、に「堯の時に當り、天下猶お未だ平らかならず、洪水横流し、天下に氾濫す。草木暢茂し、禽獣繁殖し、五穀登らず。禽獣人にXり、獸蹄鳥迹の道、中国に交わる。堯獨り之を憂い、舜を舉げて治を敷かしむ。舜、益をして火を掌らしむ。益山澤を烈して之を焚き、禽獣逃れ匿る。禹、九河を疏し、濟・VをWして、諸を海に注ぎ、汝・漢を決し、淮・泗を排して、之を江に注ぐ。然る後中国得て食う可き也。

とあります。孟子がいう「中国」とは、現在の中国ではなく、これから考えれば「華北平原」ぐらいになります。
またこれは『禹貢』とは少し違います。『禹貢』では、「淮を導き、桐柏より、東して泗・沂に會し、東して海に入る」です。孟子の言葉では「淮・泗を排して、之を江に注ぐ」となっています。
淮河の水を揚子江(長江)へ注ぐとは不合理であり得ないから孟子の説は信用できない。という学者もいますq
常識的に見ればそうでしょう。黄河の三角州、沖積平野は天津から淮河河口までで、揚子江の下流は揚子江が形成した沖積平野だと、地理学者でもいう人がいます。揚子江の下流は中国第一の大河である揚子江の泥土により形成されたと、だれでも考えるでしょう。
しかし揚子江の下流にも、黄河の泥土と同じ地質が広く存在していることと、表に見るように、黄河の泥土は揚子江の九十四倍という桁外れの量である点を考えると、揚子江下流の沖積平野の相当部分も、黄河からもたらされた、泥土により形成されたに違いありません。

水一トンに対する泥砂の含有量

黄河 長江 ナイル河 アムール河 コロラド河
37・6キロ 0・4キロ 1・6キロ 2・3キロ 16・6キロ

濟・Vすなわち濟水・V水はだいたい現在の黄河の河道の近くを流れていた、と推測されています。汝とは、河南省から淮水に注ぐ汝河、淮河の支流です。泗河とは山東省泗水県陪尾山に発し、淮河に入ったと伝えられます。漢水は陝西省から湖北省へ入り、武漢で揚子江に合する大河。淮は淮河、現在は洪沢湖に注いでいますが、かつては黄海に注いでいた大河。「黄河」「済水」「淮水」「揚子江(長江)」を古代には『四Y』(四大河)と呼びました。「済水」は現在ではなくなり、その跡を黄河が流れています。


黄河下流域

「黄河」は陝西省の潼関あたりで向きを変え、鄭州のあたりまで東に直進して来ます。そこで華北平原に出るわけですが。その前方正面には泰山を中心とする「魯中山地」が待ち構えていますから、それを迂回して北側の渤海に入るか、または南側の黄海に入るかしなければなりません。
そのうち南側の黄海側にも、淮河やその他中小の河川があったわけですが、それらの河口は黄河の泥土による「S門砂」により塞がれて、黄河の流れは次第に南に方向を変え、遠く揚子江河口でようやく海に入る状況となっていたのでしょう。
文字通り「横流」していたわけです。このように南側の流れは距離が長いうえに、黄河の流れと淮河の流れが交わる付近は当然、流れは停滞しますから泥土の沈殿も多く、そのあたりは浅瀬となっていたでしょう。
そういうわけで、黄海側への流れが極端に悪くなっていたために、黄河はほとんど渤海側に流れていたわけです。
「九河を疏し、濟・VをWして、諸を海に注ぎ、汝・漢を決し、淮・泗を排して、之を江に注ぐ」
九河(T州を流れる多くの河)を疎通し、濟水V水を浚渫してその水を海に注ぎ、汝水漢水を切り開き、淮水泗水に排水口を開いて、揚子江へ注ぐようにした。
これは現代中国が行うとしても、「国運を賭した巨大ぷろじぇくと」と呼ばなければならないほどの大事業です。古代の人口もまだ少ない時代には、このような大工事ができるわけがない。孟子一流の誇張した説だ。とだれしも考えるでしょう。
しかし信じがたいことですが、このような「巨大公共工事」が、当時行われたことは間違いありません。
おそらく「殷帝国」という巨大な勢力を倒すために、数多くの異民族を糾合して戦った経験が、当時の社会を一段と進歩させていたのでしょう。それが華北平原近辺のすべての部族を結集してこの「大工事」に挑ましたのでしょう。それに当時の人々は時間を気にしなかったのです。現代人のように完成の日時を気にするようなことはなかったのです。
「西周時代」は約三百年と推測されていますが、おそらくその三百年間の排水工事の成果として、水位が下がり冠水していた華北平野が姿を表したわけです。
殷帝国時代以前の華北平原は、次図のようなものであったと思われます。

図の水色の部分は冠水していた地域です。山東半島の白い部分が「禹貢」にいう「青州」となります。

「堯の時に當り、天下猶お未だ平らかならず、洪水横流し、天下に氾濫す。草木暢茂し、禽獣繁殖す」と言いますが、現在の黄河の川岸や川中に生えている草木は、ほとんど葦です。おそらく三千年前も、五千年前もそうであったでしょう。
すなわち、この広大な地域は「葦原」であったのでしょう。

葦原中国と青州
すなわち『記紀神話』にいう「葦原の中国」とか「豊葦原の中国」とは、この広大な葦原の中の國。『書経禹貢篇』にいうところの「海・岱は惟れ青州」という「青州」にあたりますが、そのまわりは「葦が群生した大湿原」であったわけです。
記紀神話に出てくる「出雲國」「根の國」「葦原中国」は同じ土地でなければ、ツジツマが合わないのですが。これは『書経禹貢』にいう「青州」と同じ土地であったのでしょう。。


孟子は戦国時代中期の人です。その生まれは「鄒」國、孔子の生まれである「魯」國の近くです。
彼は「梁」「斉」「宋」「鄒」「魯」「滕」等を遊説して回ったことは、その著書『孟子』にあります。このうち「斉」「宋」「鄒」「魯」「滕」は西周時代の始めから存在した古国です。また「斉」「鄒」「魯」「滕」は「青州」にあり、「宋」は河南省の「商丘」に建てられていました。
しかし「梁」は戦国時代の中ごろに築かれた新しい都市です。
「梁」は戦国七雄の「魏」の別名です。『史記魏世家』によれば、「恵王」の三十一年(BC340年)都の安邑(山西省夏県)が秦に圧迫を受け移って「大梁」を都にした、とあります。それが現在の開封です。
従って「斉」「宋」「鄒」「魯」「滕」等の国々より七百年ばかり後に建設された都市です。
恵王は国力を回復しようとして、各地から賢者を招きました。そのなかに「孟軻」(孟子)の名があります。
すなわちこの地域は彼のホームグラウンドであったのです。孟子の時代にはこの地方には、このような伝承があったのでしょう。
この孟子の説のほうが「禹貢」より古いのではないか、と思われます。
「大粱」(魏)は堅固な城塞都市であったでしょう。しかし低地という弱点は依然として解消していませんでした。BC225に「秦始皇帝」の水攻めにより滅ぼされます。

尚、近頃「開封」は、春秋時代初頭の「鄭」に始まる。という説も散見します。春秋の「鄭」は「春秋左氏伝」や「水経注」から考えますと、河南省「新鄭」とする説が正しいと思いますが。仮に春秋初頭に「開封」の地で始まったとしてもBC770ですから、「斉」「宋」「鄒」「魯」等より三百年ばかり後の建設となります。


                        国譲り神話


さてこの「青州」と呼ばれる地方は、有名な「龍山文化」や「大Z口文化」をはじめ新石器時代の遺物が多く出土します。殷帝国も元はこの地方の出身であった。と言われます。
「殷帝国」時代より古い時代の遺物が最も多く出土するのは、「中原」すなわち河南省ですが。その次に多く出土するのは山東省のこの『禹貢』で「青州」と呼ばれる土地です。
おそらく人口も中原に次いでこの地方が多かったでしょう。
周王国が西周時代に、各地に建てた國は学者により違いますが、だいたい五十國から二百國であった、といわれます。「邑国家」などと言われる小規模な國でした。
それらに比べますと、この「青州」(葦原中国)は桁違いの大国です。この大国を「太公望呂尚」(すさのおのみこと)に支配されることになれば、将来周王国の大脅威となる。
周はそう考えたわけです。この「青州」全体を「太公望呂尚」に支配させることは断じて許してはいけない。
それで天照大神以下の姜族の指導者達に、説得するよう強く申し入れたのでしょう。もし説得できないときは、大きくなる前に討伐する。おそらくそう言い渡されたのでしょう。

天照大神以下は苦慮されたでしょう。『記紀』によれば、先ず「天穂火命」を派遣しますが失敗します。次にその子「大背飯三熊之大人」を派遣しますが失敗します。次に「天稚彦」を派遣しますがこれも失敗。様子を見に「無名雉」を遣いにやりますが、これは矢で射殺されます。
最後に選ばれた「經津主神」と「建御雷之男神」の二神を派遣しますが。今度は説得に成功したのでしょう。
「それほど私の忠誠心を疑うのであれば、私は隠棲しましょう。しかし私の子供や部下達が生活できるよう小さい領土は貰いたい。」ということで話はついたのでしょう。
そして「太公望呂尚」(すさのおのみこと)は「八十隈」(やそくまで)に隠棲されたのでしょう。
しかし彼の子供の一部には「おれは降伏しない。周のへろへろ兵など怖くない、おれ一人で追い返してやる。」とあくまでも反対する若者が出たのでしょう。
「貴男は若い。世の中には貴男より強い人は大勢います。」「どうしても戦うというのであれば、私と一度勝負してみましょう。そのうえで態度をきめればよいでしょう。」ということで、力競べしますが「建御雷之男神」が「建御名方神」の腕を、若葦を取るが如く、掴みひしぎて投げ放ったので。とうてい敵わないと、降参したわけです。
これが『史記斉太公世家』に「是に於いて武王、已に商を平らげ天下に王たり。師尚父を斉の營丘に封ず……莱侯来たり伐ち、之と營丘を争う。」と同じ事実でしょう。

天孫降臨
さて天孫「ににぎのみこと」は、「あまのいわくら」から舟で出発したわけです。「天八重雲を排し分けて」というのは、事実は広大な葦原、葦の茂みを押し分けて、下ってきたわけです。見渡す限り空と雲と葦でした。はるか前方に見える高千穂の峯、後の泰山の頂上を目標にして、下ってきたのです。
すなわち日本書紀にいう「皇孫、乃ち天磐座を離ち、且た天八重雲を排し分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯に天降ります。」の原事実はこのようなことであったでしょう。


後年「聖徳太子」の命をうけた遣隋使や遣隋留学生は、このあたりを通ったわけですが。当時、隋の時代は開封を拠点に北は|郡(北京付近)から、南は杭州に至る「大運河」を開いた時代です。
「開封」は空前の繁栄を誇っていました。この付近一帯がかつて広大な葦原であったとは、思いも寄らなかったでしょう。
そのような事情が、「天磐座を離ち、且た天八重雲を排し分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯に天降ります。」という、はなはだ不合理な解釈へ傾かざるを得なかった主因でしょう。

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