第三章  『八岐大蛇神話』の原事実


さて前章でも、述べましたが。
BC690年に、中国本土の紀国を大去された『紀候』(春秋経荘公四年、紀侯大去其國)と、BC663年に日本列島の紀国で崩御された『五瀬命』(日本書紀、神武天皇即位前紀乙卯年五月)とは同一人物でしょう。

中国側に遺された『紀国の歴史』と、『日本神話』には、共通した特徴が多く残されています。その共通した特徴と、中国の紀国と日本列島の紀国との位置関係、また時代の一致を考え合わせますと。「五瀬命」と「紀侯」が同一人物であること、を証明していると思います。

『記紀神話』には「天地創造神話」のように、純然たる神話もありますが、大部分は日本民族が日本列島へ渡ってくるまえの歴史。言わば、日本民族前史であったのでしょう。

さて『紀国の歴史』と『日本神話』との共通した特徴を見て行きましょう。


『記紀』には『神武即位』以後の『人皇史』と『神代史』を結ぶ「架け橋」の部分として、有名な『神武東征』があります。
まず、この「架け橋」である、『日本書紀』に載せられている「神武東征」の要点を抜粋しておきます。

○甲寅歳冬十月丁巳朔辛酉(BC667年10月5日)天皇親ラ諸ノ皇子舟師ヲ帥イテ東ヲ征シタマウ。
○行キテ筑紫國ノ菟狭ニ至リマス。
○同年十一月丙戌朔甲午(九日)天皇、筑紫國ノ岡水門ニ至リタマウ。
(古事記には「竺紫之岡田宮一年坐」とある)
○同年十二月丙辰朔壬午(二十七日)安藝國ニ至リマシテ埃宮ニ居マシマス。
(古事記には「阿岐國之多祁理宮七年坐」とある)
○乙卯年春三月甲寅朔己未(BC666年3月6日)吉備國ニ徙リテ入リマシキ。行館ヲ起リテ居ス。是ヲ高嶋宮ト曰ウ。
(古事記には「吉備之高嶋宮八年坐」とある)
○戊午年春二月丁酉朔丁未(BC663年2月11日)皇師遂ニ東ニユク。
○同年夏四月丙申朔甲辰(四月九日)長髄彦ト孔舎衛坂ニ戦ウ。流矢有リテ五瀬命(神武天皇の長兄)ノ肱脛ニ中ル。
○同年五月丙寅朔癸酉(五月八日)紀國ノ竈山ニ到リテ、五瀬命、軍ニ薨リマシヌ。因リテ竈山ニ葬リマツル。
○熊野を迂回して菟田下縣(奈良県宇陀郡)に達する。
○同年秋八月甲午朔乙未(八月二日)天皇、兄猾及ビ弟猾ヲ徴サシム。是ノ兩人ハ菟田縣ノ魁帥ナリ云々。
○同年十有二月癸巳朔乙申(十二月四日)皇師遂ニ長髄彦ヲ撃ツ。連戦シテ勝ツコト能ワズ。
○饒速日命、(長髄彦を)殺シ、其ノ衆ヲ帥イテ歸順ス。
○辛酉年春正月庚辰朔(BC660年1月1日)天皇、橿原宮ニ即帝位ス、是歳ヲ天皇元年ト爲ス。

以上が『日本書紀』による「神武東征」の要旨です。戦前の研究による、そのコースは、だいたいA図の通りと考えられていました。
 もちろん戦後は、この「神武東征」などは根も葉もない創作記事だと考えられて、戦後の古代史研究では、まったく無視されていましたから、戦前の研究から一歩も進んでいません。


さて「神武東征」の時期より少し遡りますが、『春秋経』莊公四年(BC690年)夏の条に「紀侯大去其國」とあります。紀国とは現在の中国山東省寿光県に在り、『姜姓国』です。
 大去とは種々の説がありますが。大いに去る、すなわち多くの国人を引き連れて其の国を去った、という事でしょう。紀侯はどこへ行ったかわかりません。すなわち行方不明となっているのです。
 この『春秋経』の記事と、『日本書紀』神武東征とを総合して考えますと。BC690年に中国の「紀国」を大去された紀侯と、BC663年に日本列島の「紀国」で崩御された五瀬命とは、同一人物でしょう。

 中国本土の「紀国」は、西周時代から春秋初期まで実在し、このBC690年に無くなったわけですが。たまたま同時代の日本列島にも「紀国」という同名同文字の国が存在した。ということ自体がすでに不自然な話でしょう。
紀元前七世紀という時代(縄文何期か知りませんが)を考えれば、中国にも「紀国」があった、日本にも「紀国」があったというようなことは、先ずありえないでしょう。
 いわんや、「紀侯」は出発した場所は中国の「山東寿光県」であることは判っていますが、行く先は判らないのです。
片方の神武天皇の率いる集団(民族か部族と呼ぶほうが適切でしょうが)は、日向国を出発したことは判っていますが。その日向国とはどの土地か判らないのです。

戦前の研究では、日向国とは南九州にあった、と考えられていましたが。現在ではそれを信じる歴史家は一人もいないでしょう。紀元前七世紀に、大和朝廷の発祥地である先進地が、南九州に在ったとは、あまりにも不合理です。
 すなわち出発地のわからない神武天皇の率いる集団が、日本列島の「紀国」を通りかかり。天皇の長兄「五瀬命」がその「紀国」で亡くなった。という偶然の重なりはそれこそ有り得ないでしょう。 日本列島の「紀国」は、もとから存在したのではなく。五瀬命が亡くなった後、故五瀬命を偲んで、崩御された土地、遺骸を葬った土地を、新しく「紀国」と命名したに違いありません。

 また神武天皇が辛酉年(BC660年)に即位されたのは、辛酉革命思想などによるのではなく。戊午年(BC663年)に先王がなくなられたから、本来であればその翌年にでも即位するのですが、長髄彦との戦いなどがあり。それらが落ち着いた辛酉年(BC660年)に、ようやく即位できた。ということではないでしょうか。


次に『神代史』を見て行きます。

春秋経 日本書紀
BC721年 春秋経隠公二年十月、伯姫紀ニ歸グ
BC716年 春秋経隠公七年三月、叔姫紀ニ歸グ
BC690年 春秋経荘公四年三月、紀ノ伯姫卒ス
同上 同年、夏、紀侯其ノ國ヲ大去ス
BC665年 春秋経荘公廿有九年十有二月、紀叔姫卒ス
BC663年 日本書紀戊午年五月丙寅朔癸酉紀國ノ竈山ニ到リテ、五瀬命、軍ニ薨リマシヌ
BC660年 辛酉年春正月庚辰朔、神武天皇、橿原ニ於テ即帝位ス

BC721年に魯國から紀國に嫁がれた伯姫は、『日本書紀』神代下に出てくる「豊玉姫」でしょう。その方から生まれた「うがやふきあえずのみこと」がBC690年に紀国を大去された紀侯ですが。『日本書紀』でBC663年に「紀國ノ竈山ニ到リテ、五瀬命、軍ニ薨リマシヌ」とある、『五瀬命』も同一人物でしょう。
「うがやふきあえずのみこと」とは幼名で、成人して「彦五瀬命」と名乗る。というような関係になるのでしょう。

『記紀』では「うがやふきあえずのみこと」が崩御され、日向の吾平山上陵に葬る。という記事で、いわゆる「神代史」が終わり。次の巻から「人皇史」となり、神武東征が始まるわけですが。これはBC690年に亡くなられた「紀の伯姫」、すなわち豊玉姫が亡くなられ葬られた。記事を取り違えたのでしょう。
紀侯が東征に踏み切った原因の一つは、この母后の死であったのでしょう。三月に亡くなられ、その年の夏に紀国を大去された点からそう推測されます。


日本書紀神代下』の本文に、「ひこなぎさうがやふきあえずのみこと、其の姨、玉依姫を以て妃と為す」とあり。続いて「彦五瀬命を生む。次に稲飯命。次に三毛入野命。次に神日本磐余彦尊。凡て四男を生む」とあります。

しかし『神代下、第十段、本文でいう、「彦火火出見尊」とBC721年に魯国から嫁がれた伯姫、すなわち「豊玉姫」との間に生まれたのが、幼名「ひこなぎさうがやふきあえずのみこと」成人して「彦五瀬命」であり。「彦五瀬命」と、その叔母「魯の叔姫」すなわち「玉依姫」の間に生まれたのが「神武天皇」でしょう。


さて『春秋経』に出てくる『紀侯』が、『日本書紀』に出てくる「彦五瀬命」である。ことさえ判れば。『記紀』の神代史の部分には、当然『中国古代史』に対比出来る点があるはずです。
そのうちで容易に推測できるのは、「素戔鳴尊」と斉国の開祖「太公望呂尚」が同一人物であることです。「紀国」と「斉国」は同族です。


さて『記紀神話』には、周知のようには「國譲り神話」と呼ばれる部分があります。ご存じでない方も多いようですから、概略をかいつまんで述べておきます。(詳しいことは、『日本書紀』と『古事記』についてご覧下さい。)

「神武天皇」や「彦五瀬命」のご先祖、すなわち『天皇家のご先祖』は、周知のように『天照大神』です。その弟神が『素盞鳴尊』で。素盞鳴尊が『八岐大蛇』を退治した後、出雲の國に下って、須賀の地に宮を造り座しきとあります。ですから『素盞鳴尊』が出雲の國を開いた初代の神様ということになります。
その地で『素盞鳴尊』は多くの子を生みますが、その中の一人が『大国主の神』亦の名を『大穴牟遲の神』です。

次に、天照大神の御子『天忍穂耳尊』が、高御産霊尊の女[幡千千姫を娶り、生まれたのが『瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)』です。

「國譲り神話」とは、高御産霊尊が、「その皇孫『瓊瓊杵尊』を立てて、葦原中国の主にせんと欲」されるわけです。ところが葦原中国には蠅声なす(さばえなす)邪神が有る。というわけで、この邪神を撥い平らげるに、だれがよいか、とのご下問に対して「天穂日命は是れ神の傑なり」ということで派遣されるが、「大穴牟遲の神」に佞り媚びるありさまで失敗。その子「大背飯三熊之大人」も失敗。さらに「天雅彦」を派遣するが、この神も亦、忠誠でなく失敗。
最後に「建御雷神」を派遣するわけですが、「建御雷神」は力づくで「大国主の神」やその子、「建御名方の神」ヲ屈伏させ、「皇孫ニニギノミコト」に國を奉ります。と誓わせるわけです

この『記紀神話』にある「國譲り神話」と、『史記斉太公世家』にある「莱侯来リ伐チ之ト營丘ヲ争ウ」(莱侯来伐、與之營丘争)とは同一事実でであることは、間違いないでしょう。
莱侯も姜姓ですが、記紀神話にある「建御雷神」にあたります。


次に『記紀神話』で「八岐大蛇退治」となっているのは、現在では『殷周革命』と呼ばれている「周が殷を倒した戦い」のことでしょう。この戦いを姜姓諸族の間では、「素戔鳴尊(太公望呂尚)の王紂退治」と語り継がれていたわけです。
 さてこの太公望呂尚の討殷が、記紀神話で大蛇退治に変化した原因ですが。呂尚に伐たれた殷帝国の最後の王は『史記』などでは、「紂」と呼ばれていますが、本来の諱は「受」でありました。
 「受」と「紂」は、古くは同音で「チ」と発音されていました。残忍にして義を損なうこの王をそしる意味で、受と同音の紂をあてた、と言われています。「王紂退治」が「八岐大蛇退治」に変化した経緯は,細部までは判りませんが。

『大盂鼎』には「殷ノ命ヲ墜セルハ、殷ノ邊・侯・田ト、殷ノ正百辟ヲ、率イテ酒ニ肄イタレバ、故ニ師ヲ喪イタリ」とあり。
また『書経』酒誥篇にも「[殷ノ成湯ヨリ帝乙ニイタルマデ)外服ニ在テハ、侯・甸・男・衞ノ邦伯、内服ニ在テハ、百僚・庶尹・亞ト、服ト、宗工、オヨビ百姓・里居ハ、敢エテ酒ニ湎スルナシ。……中略……商邑オヨビ殷國ノ滅ビシヲミルニ、庶羣酒ヲタシナミ、上ニ腥聞スルヲ罹ウル無シ。故ニ天、喪ヲ殷ニ降ス。」とあります。
すなわち、殷の紂王は、多くの殷に服属する小国の王達や、殷帝国の官僚や工人らの頭達、を率いて酒宴ばかりしていたので滅亡した。という伝承があったのです。

片方の『日本書紀』には「頭、尾、各八岐有リ」とあります。『古事記』には「身一つに八頭八尾有り」とありますので。記紀編纂時には、この大蛇は蛇身一つに頭が八つ、尾が八つあったと考えられていたのでしょう。
しかし『日本書紀』では、頭や尾が、それぞれ八岐有り、ですから少し違うわけです。おそらく八岐とは、「八個」ではなく、後の「あまた」に相当する言葉でしょう。

すなわち「あまたの王」や「あまたの頭」を率いた王紂は、酒宴を開いては、人民を苦しめる乱行を繰り返していたのでしょう。
『史記殷本紀』にも「(紂)酒ヲ好ミ淫楽シ、婦人ヲ嬖シ、妲己ヲ愛シ、妲己ノ言ニ是レ従ウ。……中略……賦税ヲ厚クシ、以テ鹿臺ノ銭ヲ實タシ、而シテ鉅橋ノ粟ヲ盈タシ、益々狗馬奇物ヲ収メ、宮室ニ充Iシ、益々沙丘ノ苑臺ヲ廣クシ、多ク野獣・蜚鳥ヲ取リテ其ノ中ニ置ク。鬼神ヲ慢リ、大ニ最メテ沙丘ニ楽戯ス。酒ヲ以テ池ト為シ、肉ヲ懸ケテ林ト為シ、男女ヲシテ裸ニシテ其ノ間ニ相逐ワシメ、長夜ノ飲ヲ為ス。百姓怨望シ、而シテ諸侯ニ畔ク者有リ。是に於イテ紂乃チ辟刑ヲ重クシ、炮烙ノ法有リ」
とあります。


紂王の淫楽のために、土地の少女を多数拉致して、「酒池肉林」の長夜の宴を張ったわけです。
『記紀』に「八鹽折ノ酒ヲ醸ミ、亦、垣ヲ作リ廻ラシ、ソノ垣ニ八ツノ門ヲ作リ、門毎ニ八ツノサズキヲ結イ、其ノサズキ毎ニ酒船ヲ置キテ、船毎ニ其ノ八鹽折ノ酒ヲ盛リテ待テ」とありますのは。『史記殷本紀』に「酒ヲ以テ池ト為シ」とあるのと同じ事件でしょう。
この悪行に怒った素戔鳴尊(太公望呂尚)は、王紂退治を決意して。姜族の本拠地、すなわち『記紀神話』でいう「高天原」へ馳せ帰ったわけです。

『記紀神話』と『太公望呂尚』を比較する前に、『太公望呂尚』とは、どのような人物であったか、を見ておきましょう。 


太公望呂尚 (1)

 さて『史記』齊太公世家によれば、
「太公望呂尚ハ、東海ノ上ノ人ナリ。其ノ先祖カツテ四嶽ト為リ、禹ヲ佐ケテ水土ヲ平ゲ甚ダ功有リ。虞・夏ノ際、呂ニ封ゼラレ、或ハ申ニ封ゼラル。姓ハ姜氏ナリ。夏・商ノ時、申・呂或ハ枝庶ヲ封ズ。子孫或ハ庶人ト為ル。尚ハ其ノ苗裔ナリ。本姓ハ姜氏。其ノ封ニ從イテ姓トス。故ニ呂尚ト曰ウ」

 この条について種々の説がありますが、次のように理解してよいでしょう。
 現在、中国民族とか漢民族と呼ばれている民族は、その昔、幾つかの姓に別れていました。この「姓」とはどのようなものであったか明確ではありませんが、現在いうところの「民族」よりも「部族」。例えばアメリカインディアンのアパッチ族とか、スー族とかいうものに近いものと考えてよいでしょう。
 その姓族のうち中原に蟠踞していた大族に「姜族」があった。彼らの先祖は、夏王朝を建てた禹王の時代には、禹王を補佐した領袖であった、という伝承を持っていた。
 彼らは夏帝国の時代には河南省の呂の地、あるいは申の地を本拠としていたが。夏から殷に覇権が移ったときに、彼らのなかでの本宗が零落し、支流が呂や申の地を領有する状態となっていた。呂尚はその本家筋の末裔である。呂を姓とするのはそれ故である。

 「呂尚ハ蓋シ嘗テ窮困シ、年老イタリ。漁釣ヲ以テ周ノ西伯ニ奸ム。西伯將ニ出デテ獵セントシ、之ヲ卜ス。曰ク獲ル所ハ龍ニ非ズ、Jニ非ズ、虎ニ非ズ、羆ニ非ズ。獲ル所ハ覇王ノ輔ナリ、ト」
 「是ニ於テ周ノ西伯獵ス。果シテ太公ヲ渭ノ陽ニ遇ウ。與ニ語リテ大イニ説ビ。曰ク、吾ガ先君太公ヨリ曰ク、當ニ聖人有リテ周ニ適クベシ。周以テ興ラン、ト。子ハ眞ニ是レナランカ。吾ガ太公、子ヲ望ムコト久シ、ト。故ニ號シテ太公望ト曰ウ。與ニ載セテ倶ニ歸リ、立テテ師ト為ス」
 釣りする人を「太公望」と呼ぶのは、この有名な故事から出ていることは、よく知られています。

 「或ハ曰ク、太公ハ博聞ナリ。嘗テ紂ニ事ウ。紂無道ナリ。之ヲ去リ、諸侯ニ遊説ス。遇ウ所無シ。而シテ卒ニ西シテ周ノ西伯ニ歸ス、ト」
 「或ハ曰ク、呂尚ハ處士ナリ。海濱ニ隠ル。周の西伯、K里ニ拘ワルルヤ、散宜生・L夭、素ヨリ知リテ呂尚ヲ招ク。呂尚モ亦曰ク、吾聞ク、西伯ハ賢ナリ、又善ク老ヲ養ウト。盍ゾ往カザラン、ト。三人ノ者、西伯ノ為ニ、美女・奇物ヲ求メ、之ヲ紂ニ獻ジ、以テ西伯ヲ贖ウ。西伯以テ出デテ國ニ反ルコトヲ得タリト」
「呂尚ノ周ニ事ウル所以ヲ言ウコト、異ナルト雖モ、然シ之ヲ要スルニ文・武ノ師為リ」

 呂尚がどのようなわけで、周に仕えることになったか、司馬遷のころ(前漢時代)には異説が多くて、そのいずれが正しいか、よく判らなかったが、要するに太公望呂尚は、周の文王・武王の師であった、ということである。

 「周ノ西伯昌、K里ヲ脱レテ歸ルヤ、呂尚ト與ニ陰ニ謀リ徳ヲ修メ、以テ商ノ政ヲ傾ク。其ノ事、兵權ト奇計多シ。故ニ後世ノ兵及ビ周ノ陰権ヲ言ウモノ、皆太公ヲ宗トシ、本謀ト為ス」
 すなわち現在殷周革命などと呼ばれている、周が殷から覇権を奪った戦いの首謀者は、太公望呂尚であった。それで後世の中国流兵法を語る者は、太公望呂尚を始祖としているわけだ。

  以上に見たように、司馬遷の時代には、すでに太公望呂尚の生い立ちは不明の部分が多く。太公望といえば歴史上の人物としてより、伝説上の人物と受け取られがちである。
 しかし太公望が実在の人物であったことは述べるまでもない。彼が西周初頭に建てた齊国は、春秋末期に田氏に簒奪されるまで、約七百年、中国屈指の大国として存在した。春秋時代の一時期には、彼の子孫である「齊の桓公」は名宰相管仲を得て、春秋第一の覇者として、周王に代わって天下を差配する権勢を誇った。
戦国時代の齊国が「田齊」と呼ばれるに対し、西周・春秋を通じての齊国は「姜齊」と呼ばれている。


『記紀神話』と太公望

さて彼は高天原へ帰り、部族会議を招集した。
 『古事記』によれば「乃テ天ニ参上ル時、山川悉ニドヨミ、國土皆震ウ」
 『日本書記』によれば「始メ素戔嗚尊、天ニ昇レル時、溟渤以テ鼓キ盪イ、山岳為ニ鳴リMエキ」という。
殷帝国に反抗して決起しよう、というのであるから「山川悉ニドヨミ、國土皆震ウ」という表現も決してオーバーではなかったであろう。

 『記紀神話』では天照大神と素戔嗚尊とが、子供を産み比べて勝敗を決めたような話となっているが、これは記紀編纂者の誤解釈だろう。
 おそらく姜族の各部族の代表者会議があり、天照大神と素戔嗚尊が和戦、相反する意見を述べて、各部族の長老達の支持を求めたのであろう。
 全員一致の決定はなく、大多数は天照大神を支持したのであろうが、素戔嗚尊を支持する族長もあり、素戔嗚尊は主張を通そうとして、大暴れに暴れまわったのであろう。
 天照大神は、姜族全体から絶大な尊敬をうけていたから、姜族全体が一致して自分に従うと信じていた。しかるに一部の族長が素戔嗚尊を支持したことに衝撃を受け、『天の石屋』に閉じ籠もられた。

 天照大神は当時の姜族のなかでは、傑出した大指導者であった。この人が居られたから全姜族がまとまって来たのである。この人が殷帝国下で重きをなしていたから、姜族が殷から弾圧されることもなく、中原切っての雄族として、他族の尊敬をうけてきたのである。『天の石屋』に籠もられた後、人々は改めてその偉大さを知ったのである。この人をのぞいて、姜族をまとめて困難な時局を乗り切れる人はいないのである。
 「尓チ高天ノ原皆暗ク、葦原ノ中ツ國悉ニ闇ク、此ニ因リテ常夜往ク、是ニ萬ノ神ノ聲ハ狹蠅ナス滿チ、萬ノ妖悉ニ發リキ」(古事記)
 姜族全体が不安にかられ、動揺するという状態となった。

 「是ヲ以テ八百萬ノ神、天ノ安ノ河原ニ神集イ集イテ」(古事記)と天の安の河原で大集会が開かれた。
 姜族全体会議は、天照大神の下で、殷帝国との平和関係を維持することに決定した。素戔嗚尊、すなわち呂尚は、「神遂ライニ遂ライキ」と追放された。だが呂尚は、それぐらいのことで、あきらめる男ではなかった。彼は西の周へ行ったのである。
 姜族は周族とは、大昔から通婚関係にあった。最も親しい部族であった。また呂尚は、周の文王らとも旧知の間柄であったであろう。片や新進気鋭の青年将軍として、片や殷帝国下の重鎮として、殷都で何度も顔があっていたに違いない。

 「周ノ西伯昌、K里ヲ脱レテ歸ルヤ、呂尚ト與ニ陰ニ謀リ徳ヲ修メ、以テ商ノ政ヲ傾ク。其ノ事、兵權ト奇計多シ。故ニ後世ノ兵及ビ周ノ陰権ヲ言ウモノ、皆太公ヲ宗トシ、本謀ト為ス」というのだから、太公望呂尚が殷周革命の仕掛人であったわけだ。

 いよいよ殷帝国を打倒しよう、というときになり文王が急死した。しかしその子、武王を輔けて軍を率いて孟津まで来た。「諸侯、期セズシテ會スル者八百」というのだから、周に共鳴して殷帝国を討とうとする諸族は多かったのである。 だがそのときは黄河を渡らず、一たん兵をひいた。後章で述べるように、姜姓諸族の賛同が得られなかったのである。
 
 さらに二年の期間をおいて出兵した。


「武王將ニ紂ヲ伐タントス。卜スルニ龜兆吉ナラズ。風雨暴ニ至ル。羣公盡ク懼ル。唯ダ太公ノミ之ヲ彊イ、武王ニ勸ム。武王是ニ於テ遂ニ行ク。十一年正月甲子、牧野ニ誓イ、商紂ヲ伐ツ。紂ノ師敗績ス。紂反リ走リ、鹿台ニ登ル。遂ニ追イテ紂ヲ斬ル」

 武王は出陣に際して亀卜を行ったが、不吉と出た。天候も急変して風雨が吹き荒れた。諸侯はみな恐れて、出陣をとりやめるようにと言ったが。ただ呂尚だけが強く出陣を主張した。武王は呂尚の勧めに従い出陣したのである。今度は孟津の渡しも無事に越した。

 牧野の会戦は、殷の紂王も負けるとは夢にも思っていなかったであろう。殷の戦車隊は、この平原の戦闘で、かつて敗れたことは一度もなかったのである。敵軍は、殷の無敵戦車隊の突進を見ただけで、戦意を喪失して、逃げまどうのが常であった。ところが今度は違った。周の歩兵は、楯を手に構えて動じないのである。殷の戦車隊が猛烈な勢いで突進して、周軍の陣地を突破したときには、呂尚の工夫した新式戈に討ち取られて、殷の戦車は減っていたが、周の歩兵は再び陣を整然と守って、逃げようとしない。
 おのれとばかり、殷の戦車隊は反転して、再び疾風のような勢いで周陣を駆け抜けたとき、戦車は半減していた。三度、四度と攻撃をかけるたびに、殷の戦車は討ち取られるが、周の歩兵陣は整々として乱れない。

  すなわち『書経』牧誓に云う「今日ノ事、六歩七歩ニ愆ズシテ乃チ止テ齊エヨ。夫子勗メヨヤ」「四伐六伐七伐ニ愆ズシテ乃チ止テ齊エヨ。勗ヨヤ夫子」との武王の訓示は、このときの対戦車戦法である。
 殷軍は、敗れたことのない戦車隊が、どうして今回に限って討ち取られるのか、どうして周の歩兵が逃げ出さないのか理解できない。更に六度七度と攻撃を加えたが、戦車が討ち取られるばかりで、周の歩兵陣は整然として動じない。
 途方にくれた紂王は、残り少なくなった戦車を率いて殷都へ奔った。いつものように敵陣が混乱したときに攻撃を開始するつもりで、後方で待機していた殷の歩兵隊は、たのみの戦車隊が敗走するのを見て浮き足だち、一戦も交えず壊滅した。
   


   出雲大社の創建
 さて『書経』武成篇に「血流漂杵」という有名な言葉がある。
 現存の『武成篇』は後世、東晋時代の偽作だ、とされているが。『古武成篇』にも「血流漂杵」という言葉があった事は、『孟子』の「盡ク書ヲ信ズレバ、則チ書無キニ如カズ。吾レ武成ニ於テ、二三策ヲ取ルノミ。仁人ハ天下ニ敵無シ。至仁ヲ以テ至不仁ヲ伐ツ。而ルニ何ゾ其ノ血ノ杵ヲ流サンヤ」(『孟子』盡心下)という有名な言葉により知られている。

 ところでこの「血流漂杵」について。孟子は「仁人無敵於天下」だから、このような事は有るわけがない、と云い。朱子は、殷軍が同士討ちして多くの戦死者を出したのだろう、と推測する。
 古来、いろいろの論争がなされているところであり。近頃でも、例えば故貝塚茂樹博士も、殷周革命は激烈をきわめた戦いだから、戦死者は膨大な数にあがったに違いない。孟子の考え方は教条的にすぎる。という趣旨のことを述べておられた。

 さてこれらの論争は、孟子の思い違いから始まったのであろう。
 孟子は『盡心下』の文からすると、一見はなはだ机上の空論的な見解を述べたように思えるが、彼は戦場の実態について相当の知識があったに違いない。
 戦国時代の始めに最強国であったのは魏である。それを追い上げて来たのが、田氏が国権を奪った齊、すなわち田齊である。田齊は紀元前三百五十三年に、魏と桂陵で戦い勝った。ついで前三百四十一年に、孫武の甥という孫撃起用して、馬陵で戦い決定的な大勝を収めた。
 孟子は、その直後あたりから齊や魏を、遊説して廻るのであるから。自身は戦場を踏んだことはなくとも、それら戦場往来の武将たちの体験談を、いやというほど聞かされていたに違いない。
 いかに大量の戦死者を出しても、血液などはたちまち地面に吸い込まれて、杵どころか箸が流れるほどの血も溜まるわけがない、と確かめていたのであろう。「血流漂杵」というような大袈裟な事は、絶対にない。と確信していたから「盡ク書ヲ信ズレバ、則チ書無キニ如カズ。吾レ武成ニ於テ、二三策ヲ取ルノミ」という激しい言葉となって出たのであろう。
 だが孟子は思い違いをしていたのである。このときの戦いは、牧野における戦闘のみではないのである。

 殷の紂王に、お先に逃げられてしまった殷の歩兵隊は一戦も交えずに壊滅してしまったが、大多数の敗兵は、当然ながら殷都へ逃げ込もうとしたであろう。
 当時の殷都は、北と東をN河が湾曲して流れ、北西から東南へかけて幅20メートル深さ10メートルの濠が掘られて、防衛線となっていた。N河には戦車が通れる橋が架かっていたのであろうが、紂王が逃げ込んだ後、その橋は外されていたろう。
 後から敗走してきた歩兵達は、N河を泳いで逃げ込もうとしたのだろう。戦さ上手の太公望呂尚はこれらの兵に籠城されては面倒になる、と見て。N河を徒渉しようとしている殷軍に猛烈な追い打ちをかけた。たちまち惨憺たる修羅場と化した。渡河中の殷兵は、N河のなかでほとんど討ち取られ、N河は血の河となった。
 すなわち『古事記』にいう「肥ノ河血ト變リテ流レキ」(肥河變血而流)である。

 残りの兵士は、武器をN河に投げ捨てて降伏した。戦いが終わった後には、殷の下級兵士たちの武器であった杵が、N河一面に流れて行った。
 『書経』武成篇は、その情景を「血流漂杵」と記録した。

 一方、我が国の『帝紀・旧辞』にも同様の記事が、あったと思われる。
 出雲大社を杵築大社という由来は、ここから発生した、と推測して間違いないだろう。
 『古事記』は和銅五年(AD712年)の編纂である。
 それまで、聖徳太子以来『帝紀・旧辞』の解読作業は、断続しながら行われていた。『古事記』の撰録は、この解読作業の成果を一応示した、という事であろう。「N河變血流」という古記録も「肥ノ川血ト變リテ流レキ」と解釈した。
 だが舎人稗田阿禮には、その肥の河とは、どの河か、というような事は判らなかったであろう。もちろん太安萬呂にも判るはずがない。「杵が漂う」という語句も理解のしょうがなかった。


『晋書』や『梁書』の倭伝に、「倭ハ自ラ太伯ノ後ト云ウ」とある点から考えると。「聖徳太子」以前には、日本民族の発祥地は中国大陸である、と考えられていたのである。
おそらく、推古天皇十六年(608)「倭漢直福因」以下八名の留学生・留学僧を、中国本土へ送られた目的の一つは、日本民族の発祥地を確かめることであったろう。
その後、多くの優秀な遣唐留学生・留学僧を、送られたが。彼等は多くの学者や師僧、役人それも中央のみでなく、地方の郡や県の役人、また民間の人々、地方の古老にも質問してきたろう。おそらく言語的に、日本語と中国語との間に、まったく似た点がない、ことが壁となって、彼の地で発祥地を見つけることは出来なかったわけだ。

『聖徳太子』以来約百年の現地調査のうえで、中国本土は日本民族の発祥地ではない。と断定していた。従って、『帝紀・旧辞』に記録されていた「出雲の國」とか「根の國」も日本列島の中にあると考えたのである。それが、そもそもの間違いの元となったわけだ。

出雲の地が、現島根県と判断した理由は判らないが。おそらく、たまたまこの土地に「出雲」という國名が付いていたからであろう。


 さて『帝紀・旧辞』だけでは解釈に限界がある、と考えた「太安万侶」や「稗田阿礼」は。出雲国の古伝承を調査したい、と意見を具申したのだろう。
 出雲国だけでなく、ついでに全国を調査しようとなって、翌年すなわち和銅六年に諸国に『風土記』を、撰述するよう命令した。
しかし、そのなかでも大和朝廷が特に急いだのは『出雲風土記』であったに違いない。出雲国の古伝承が『帝記・旧辞』の解読に重要な手掛かりを与えてくれる、と信じていたからである。だから完成を待っておれなかった。
 当時、出雲国の国司は意宇郡にいた。現松江市の近くである。国司は大和朝廷に出頭するよう呼び出された。風土記撰述に手間どるようなら、出雲国に伝わる神代の事情を口頭で申し述べよ、という命令であったろう。
 出雲国の古伝承を徹底的に調査したうえで、上京したのであろうが、靈龜二年二月丁巳(すなわちAD716年、日本書記完成の四年前)出頭した出雲国造は、困り切っていたに違いない。

 まず肥の河が判らなかった。彼が居住している意宇郡にも、意宇川・飯梨河・伯太川と大川は幾つか有ったが、それらは肥の河でないことは推測できた。大蛇退治の伝承など、誰一人として聞いた者はなかったのである。
 彼には『帝紀・旧辞』は読めなかったであろうから、稗田阿禮や太安万侶あたりから、色々と説明をうけた。そして阿禮らに解読できなかった記録と、彼が調べ上げた出雲国の古伝承や地理知識をつき合わせて検討を行った。
 最終的に、肥の河とは、当時「出雲大川」と呼ばれていた出雲第一の大川、現在の斐伊川であろうと推断した。
当時には斐伊川という名が付いていたか、どうかは判らない。『出雲風土記』には、「大原郡斐伊郷の条」に、「本の字は樋なり。神亀三年、斐伊と改む」とあるから。あるいは「樋の川」ぐらいであったかも知れない。樋郷には、その昔大原郡の郡役所があったというから、「大蛇退治の肥の河」とはそのあたりと憶測したのだろう。


『出雲風土記』には、杵築郷、郡家(こおりのみやけ)の西北(いぬゐ)のかた廿八里六十歩なり。八束水臣津野命(やつかみづおみつののみこと)の國引き給いし後、天の下造らしし大神の宮を造り奉らんとして、諸の皇神等、宮處に参集いて、杵築たまいき、故、寸付きという。神亀三年(726)、字を杵築と改む。
(杵築郷、郡家西北廿八里六十歩、八束水臣津野命之國引給之後、所造天下大神之宮、將造奉而、諸皇神等、参集宮處、杵築、故、云寸付、神亀三年改字杵築。)

とある。「國引き給いし後」とは、いつの時代か判らないし。また「宮處」がこの「出雲大社」の地と、どうして定めたかも判らない。
おそらく靈龜二年、出雲国造が大和から帰った直後ぐらいに、「斐伊川」の上流から「神杵を漂わした」のであろう。現在の「斐伊川」は東に曲がって宍道湖に注いでいるが。当時は大原郡から出雲郡に入り、西に折れて『出雲大社』のあたりから海へ出ていた。当時の川口は相当広くて、『出雲大社』のあたりはその北岸であったのである。
すなわち「杵が漂い付いた」ところが、宮を築くべき土地と判断して、「お社」を築いた。だから「寸付き神社」と呼ばれていたのを、神亀三年(726)に字を「杵築神社」に改めたのであろう。

 このような偶然の一致はありえない。すなわち素戔嗚尊と太公望呂尚が、同一人物から出た事を証明している、と私は考えるのである。

 なお、近年発掘された「荒神谷遺跡」などから考えると。『出雲風土記』を編纂したころに、「八俣大蛇」にゆかりがある、と推測されるような地で、鎮魂祭をとり行ったのであろう。

 当時の信仰心篤い人々は「素戔嗚尊」をお祀りしただけでは、気が休まらなかったのである。「八俣大蛇」も祀らなければ、祟りがあると恐れたのである。「谿八谷峽八尾」というような記事があるから、斐伊川を中心に何箇所かで鎮魂の祀りを行ったわけだ。そのうちの一つが、荒神谷であったのであろう。

      
『八俣の大蛇退治』の原型
 N河と巨大な水濠で守られた要害も、守備にあたる兵士がなければ役に立たない。
N河河畔で殷軍の大部分を殲滅した呂尚は、一気に殷都になだれこんだ。紂王を守る親衛隊は必死の抵抗を試みた。殷軍中の最強部隊に抵抗されて、周兵達もひるんだ。呂尚は激しく叱咤し、自ら十握剣をぬいて、先頭にたち斬りまくった。
『史記』殷本紀や周本紀では、紂王は自ら火に焼けて自殺した、となっているが。『齊太公世家』では「紂反リ走リ、鹿臺ニ登ル。遂ニ追イテ紂ヲ斬ル」と、呂尚が斬殺したとなっている。
どちらが正しいかは判らないが、呂尚は自ら多くの殷人を斬り殺した、という伝承があったようだ。

 これより九百年ばかり後のことだが、戦国時代、韓非子が秦王に姚賈のことを譖した。それに対して姚賈はうまく弁明したために、秦王はその弁明を入れて、韓非子を誅殺してしまう。という逸話が『戦国策』秦策に載っている。
そのときの姚賈の弁明のなかに、「太公望ハ齊ノ逐夫、朝歌ノ廢屠、子良ノ逐臣、棘津ノ讎ニシテ庸イラレザルヲ、文王之ヲ用イテ王タリ」というのがある。
 「齊ノ逐夫」というのは、記紀神話にある「神逐ライヤライキ」と高天原を追放された事から出たのであろう。これは後に、姜姓諸族から仲直りを求められたとき、それを断ったという「覆水盆ニ返ラズ」という故事に発展して行くのである。
 さて「朝歌ノ廢屠」というのは、殷都に攻め入ったときに、呂尚があまりにも多くの殷人を殺したために、「朝歌(殷都)の屠殺者」と綽名されたのだろう。

 そのように斬りまくっているうちに、剣の刃がこぼれて使いものにならなくなった。殷の王子の佩いていた剣をとって更に斬った。後にこの劔を天照大神に献上された。これが天叢雲劔であろう。

すなわち現在「殷周革命」などと呼ばれている「殷帝国」から「周王国」に覇権が移る大事件が、記紀神話の「八俣の大蛇退治」の原事実であろう。
   

   国譲り神話

 呂尚は紂王のみでなくその取り巻きに対しても、恨み骨髄という憎しみを持っていたのであろう。殷帝国を倒したときには、取り巻き達の降伏を許さず片端から殺した。
 すなわち『戦国策』にいう「朝歌ノ廃屠」という異名を奉られたのである。呂尚が怒ったときの凶暴性には、敵のみでなく味方も恐れた。これでは紂王以上に危険な存在だ、と考え始めたのである。


 当時の中国本土のなかで、人口が多かったのは中原地方と、沿海地方、すなわち濟水から淮水流域へかけての地方である。この二地方が人口も多く、生産力も豊かで文化も高かった。(当時は現黄河の下流と同じあたりを濟水が流れていた。黄河ははるか北の天津のあたりで海に出ていた。)
 周に天下を取らせてやったのは俺だ、と自負していた呂尚は、中国本土第二の豊かな地方である、この沿海地方を自分の領土にするつもりでいた。あるいは生前の文王と約束が出来ていたのかも知れない。

 だが殷帝国を滅ぼした後の周は、呂尚を恐れ始めていた。将来、周を倒し周人を皆殺しにする敵となるかも知れぬと考えたのである。
 しかし、だれの目にも勲功第一等と見える呂尚の要求を、むげに断るわけに行かない。それに中原一の大族である姜族との結びつきを、強くせねば周の天下も短命に終わりかねない。
 苦慮したあげく、周に協力した全姜族への報奨として、姜族の本家(いま仮に天照大神としておこう)に与える、としたのであろう。

 姜姓諸族は会議を開いて、天照大神の子、すなわち天忍穂耳命を沿海地方の宗家とすることに決めた。
 しかし討殷以前から、成功すれば沿海地方は俺が貰う、と文王と約束していた呂尚は、すでに自分の息子や郎党達を沿海地方へ下向させ、領域経営を開始していた。その息子や部下達は、新領土経営に意気壯んであったから、あらためて天忍穂耳命に引き渡せ、という姜族会議の決定など相手にしない。

『國譲り神話』を見れば、当時の周の武王が、いかに呂尚を危険視していたか推測できる。
この「ニニギノミコト」を、葦原中國(沿海地方)へ下らせた高御産霊尊とは『周の武王』であろう。当時には、武王の他に国土を分け与える権力者は無かったのである。

「ニニギノミコト」は天照大神の孫でもあるが、高御産霊尊(周の武王)の孫でもある。「特に憐愛を鍾めて、崇めて養いたまう。」(日本書紀神代下第九段)とある、孫が可愛いから「葦原中國の主」にしたかのように、日本書紀は書いている。愛娘の初孫であるから可愛かったに違いないが。根本的には素盞鳴尊(呂尚)に、全沿海地方を一任するのはあまりにも危険と考えたのである。これからは姜族との同盟は、最も大切にしなければならないが。呂尚(素盞鳴尊)に沿海地方全体の支配を許るしては、たちまち周王国を脅かす大国が出現して、再び天下大乱の原因になると考えたからに違いない。

周の武王から見れば、太公望呂尚は殷帝国を打倒し、周に天下を取らせた最大の功労者であるが。疑えば、殷帝国を打倒するために周をうまく利用しただけで。いつか力を蓄えたのちには、周をも打倒して、天下を我が物にしょうとする大野心家にも見えたわけだ。

天照大神には、その事情はよく分かっていたのである。武王の命にそむいて沿海地方(出雲地方)を占領したままでは、ますます危険視されて武王の討伐をうけるに違いない。そのために素盞鳴尊(呂尚)を説得しようとして、「天穂日命」を派遣するが、素盞鳴尊の子「大穴牟遲の神」に佞り媚びるありさまで出雲側に寝返ってしまう。
次にその子「大背飯三熊之大人」を派遣するが、これも父「天穂日命」に寝返って失敗する。さらに「天雅彦」を派遣するが、この神も亦、忠誠心がなくて失敗するのである。

 並大抵の使者では駄目だ。ということで全姜族切っての豪傑である「建御雷神」を派遣した。建御雷神は沿海地方に下り、呂尚の息子や部下たちを、腕づくで屈伏させて「命令にしたがいます」と誓わせた。
『國譲り神話』から考えると呂尚(素盞鳴尊)は、天照大神の説得に応じたが。その子供達の強硬派は、なかなか承知しなかったのであろう。

 すなわち『記紀神話』における「国譲り神話」であり。
『史記』齊太公世家に載る「莱侯來リ伐チ之ト營丘ヲ争ウ」(莱侯來伐、與之争營丘)という伝承である。

だが、この「国譲り神話」の事件が、齊国側に怨念として残り、後の紀国と齊国との紛争の原因となるのであろう。

『史記斉太公世家』によれば「武王、已に商を平らげて天下に王たり。師尚父を斉の營丘に封ず。東して國に就くに、道に宿し、行くこと遅し。逆旅の人曰く、吾聞く、時は得難くして失い易しと。客寝ること甚だ安し。殆ど國に就く者に非ざるなり、と。
太公之を聞き、夜に衣て行き、黎明、國に至る。莱候來り伐ち、之と營丘を争う。營丘は莱に辺す。

莱人は夷なり。紂の乱に会いて、周初めて定まり、未だ遠方を集んずること能はず。是を以て太公と國を争いしなり。太公國に至り、政を脩め、其の俗に因り、其の礼を簡にし、商工の業を通じ、魚塩の利を便にす。而して人民多く斉に帰し、斉は大國と為る。」とある。

しかし「莱人」は夷ではない。莱国は西周王朝の始めに封建され、姜姓国であり、紀国の附庸国であった。それも有力な右腕とも云うべき國であった。
「紀侯大去其國」の後も独立国として存続していたが、BC567年に遂に齊に滅ぼされた。しかしその後もこの土地は「海中の三神山」捜索の拠点として、漢の武帝の時代まで。この「莱國」の沖に「不老不死の神仙」が住んでいると、多くの人に信じられてきたのである。(この点については第五章でも述べました。)

また、「太公國に至り、政を脩め、其の俗に因り、其の礼を簡にし、商工の業を通じ、魚塩の利を便にす。而して人民多く斉に帰し、斉は大國と為る。」とあるように。素戔嗚尊すなわち太公望呂尚は戦争の名人だけでなく、民心の掌握についても非凡な手腕の持ち主であった。

「莱候」(建御雷神)に沿海地方全体の統治権は、取り上げられていたが、營丘の地は彼の領国として残されていたから。(記紀神話に「出雲の清地に至り、彼處に宮を建つ」と云う清地は營丘のことであろう)

この土地に「斉国」という國を建てたが、彼の非凡な治政により、「人民多く斉に帰し、斉は大國と為る。」となったのである。
もともとこの地方の住民には、素戔嗚尊(太公望呂尚)は、虐待されていた住民を助けるために「殷の王紂」を退治して下さった、大恩人であったのである。

そのために、皇孫ニニギノミコトがこの地方に降ってこられたときには、この土地の人民はほとんど斉に吸いよせられて、斉地以外は労働力の少ない「膂宍の空國」となっていたわけだ。


こうして「膂宍の空國」から出発した『紀国』は、船出早々に武王の死去があって、苦難の道を歩むことになる。しかし『紀国』は立派に成長し、沿海地方の宗主国としての責任を果たしていたのである。
その国がどうして、その國土を大去して日本列島へ新天地を求めて移ったのか、それは次章で見てみよう。

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