『神武東征』の原事実と大和朝廷がルーツを発見できなかった原因(前)


『日本書紀』推古天皇二十八年に「是歳、皇太子(聖徳太子)、嶋大臣(蘇我馬子)、共に議りて、天皇記及び國記、臣連伴造國造百八十部并て公民等の本記を録す。」
とありますから、聖徳太子は自国の歴史について強い関心を持っておられたに違いありません。

おそらくわが国の本格的な『正史編纂』を最初に計画されたのは、聖徳太子でしょう。
本格的な正史ですから、日本国(倭国)のルーツから記述しなければならないと考えられたわけです。

その倭国のルーツについては、周知のように『魏略逸文』や『晋書』や『梁書』の倭伝には「倭ハ自ラ太伯ノ後ト云ウ」とありますから。三国時代に『卑弥呼女王』の使いと称して洛陽へ行った使節も、南北朝時代に『倭の五王』の使いと称して南朝を訪ねた使節も、「倭国を開いた開祖は太伯であり、倭人はその太伯の末裔である」と云っていたわけです。
すなわち当時の倭人は「倭國を開いた開祖は『太伯』であり、倭人はその太伯に率いられて、中国本土から日本列島へ渡ってきた人々の末裔である」という確固とした伝承を持っていたのです。


またその伝承とともに、『帝紀・旧辞』とよばれるわが国に伝わる古記録のなかには、日本民族が中国本土に住んでいた時代の記録がありました。(その解釈を誤った記録が記紀神話となっているわけです)
その古記録のなかで、最も重要な部分が「太伯に率いられて中国本土から日本列島へ移遷してきた。」という條りでありました。
この太伯に率いられてきた。という部分さえ正確に判れば、あとの部分も自ずから正しく解釈できる、と考えたに違いありません。

また、『魏略逸文』や『晋書』や『梁書』の倭伝の記事から推測しますと。当時の倭人は、偉大な『太伯』の名前を出せば、それに対応する中国側の伝承は必ずある。と考えていたのでしょう。しかし、残念にも倭人の伝承に合致する『太伯』の伝承は中国側から出てこなかったのです。それで倭人たちのその伝承についての確信は、多少ぐらついていたのであろうと思われます。

そういうわけで、聖徳太子は倭国につたわる『太伯伝承』が、正確なものか、現地で調査する必要がある、と考えられたわけです。


すなわち聖徳太子が推古十五年に「小野妹子」を遣隋使として送られ、同じく十六年に「小野妹子」を再度、遣隋使として派遣されたとき、優秀な遣隋留学生、遣隋留学僧を伴わせた真の目的は、その調査であったでしょう。

彼らが発掘できると期待していた伝承は、「偉大な太伯は末弟に國を与えて、自らは多くの若者を率いて、海の向こうに新天地を開こうと、出発された。人々はみなお供を願ったが、新天地を開くまでの困難を考えると、老人や年少の者を連れて行くわけにはいかない。皆は中国本土に残って、新しく國君となる末弟のもとで立派な國作りに励むよう諭された。人々は太伯の船が出発されると、それを追って岬の先まで走った。海の向こうで新王国を開かれたとき、私たちも呼び寄せて下さい。と声を限りに叫んで、船影が見えなくなるまで、手を振って見送った。」
というような伝承であったでしょう。

しかし彼らは期待したような『太伯』の伝承を、中国本土で見つける事は、出来ませんでした。中国本土にも「太伯」の伝承はあったのですが、日本の伝承とは同一人物とは思えなかったのです。
結局、わが国に伝わる「太伯伝承」は永い年月間での誤伝、と判断されたのでしょう
そういうわけで『記紀』編纂にさいして、「太伯」についての記録はされなかったわけです。それまでは「倭ハ自ラ太伯ノ後ト云」ってきたにも関わらず。その伝承は『記紀』に載せることはできなかったのです。

それでは、どうして正しい史実を発見できなかったのでしょうか。振り返ってみましょう。


太伯


まず最初に推測できるのは、『春秋経』に出てくる「紀侯」であり『日本書紀』に出てくる「五瀬命」である方が、中国古代史に伝えられる「太伯」であることです。すなわち「太伯」とは、この方の別称でしょう。


「太伯」についての、中国側に残されている伝承でよく知られているのは『史記』「呉太伯世家」の冒頭にある「呉太伯と太伯弟仲雍、皆、周の太王の子にして、王季歴の兄也、季歴は賢にして、聖子昌有り。太王、季歴を立てて以て昌に及ぼさんと欲す。是に於いて太伯・仲雍二人、乃ち荊蠻に犇り、文身断髪、用う可らざるを示し、以て季歴を避く、季歴果たして立つ。是を王季と為す。而して昌を文王と為す。」の記事です。
これとほぼ同じ内容の記事が、『史記周本紀』にもあります。

司馬遷のころから、すなわち前漢帝国の時代以降「太伯」については、これが正しい伝承である、と中国では考えられてきたのでしょう。

もちろん「小野妹子」や遣隋留学生が、中国本土へ行った時代も、「太伯」とは周王国を開いた「文王」の父、王季の長兄にあたる方であり。末弟に周國の継承権を譲ろうとして、出奔し長江の下流、現蘇州付近に「呉國」を開いた人物、と考えられていたのです。それが常識、定説であったのです。
ですから「小野妹子」らも、この「太伯」は、我が日本民族の祖先ではない、と考えたわけです。


しかし、この司馬遷より約四百年遡り、春秋時代の末期に孔子が語った言葉が、

『論語』「泰伯篇」の「子曰く、泰伯は其れ至徳と謂う可きのみ。三たび天下を以て譲る。民得て称する無し。」(子曰、泰伯其可謂至徳也已矣、。三以天下譲、民無得而称焉、)です。
(通釈、孔子言う、泰伯こそは、実に最上至極の徳の人というべきであろう。泰伯は当然天下を受け継ぐべき身でありながら、固辞して末弟に天下を譲ってしまった。しかもまた、世の人は、その泰伯の譲ったということすら知らなかったので、これをほめるものはなかった。そこが泰伯の至徳たるゆえんである。)「明治書院刊、新釈漢文大系『論語』吉田賢抗釈」

当時の、孔子の母国「魯國」と「呉國」との関係から考えますと、この孔子の言葉は、春秋時代末期になって「呉國」から「魯国」に伝えられたもの、から出たものでしょう。

さて『史記呉太伯世家』には「太伯卒し、子無し。弟仲雍立つ。是を呉の仲雍と為す。」とあります。
しかし「太伯」は、BC690年に中国本土の紀国を大去された『紀候』であり、『日本書紀』ではBC663年に日本列島の紀国で崩御された『五瀬命』となっている方と考えられますから。
『呉國』の先祖となった仲雍とは『日本書紀』「神武即位前紀戊午年六月」に神武一行と別れて海中へ行かれた「稲飯命」か、または「三毛入野命」でしょう。

また『春秋左氏伝』荘公四年の伝文に「紀侯、斉に下ること能わず、國を以て紀季に与う。」とありますように「紀侯」(太伯)が、末弟に國を譲った史実が、『史記』にある「太伯が王季(季歴)に継承権を譲った」という伝承を生じていく原因でしょう。


以上と推測する理由の一つは、
『記紀』に呉國との通交の記録が幾つか残されているからです。
例えば、『日本書紀』応神紀三十七年に呉國との交流記事があり。雄略紀八年・十年・十二年・十四年にも呉國との交流記事があります。
また『古事記』にも雄略天皇の巻に、「此の時、呉人参り渡り来つ。其の呉人を安けく呉原に置きたまいき。故、其の地を號けて呉原と謂う也。」という記事があります。

このように古い対呉國交流の記録がありますが。記録自体に混乱が有り、かつ中国側の記録と照応せず。歴史資料としての価値を認められていないのは周知のとおりです。
しかし記紀編纂者達が、それらの記事を創作したとは考えられません。何故かと言えば、大和朝廷にそれらを創作しなければならない理由など、あるとは考えられないからです。
おそらく「『帝紀・旧辞』と呼ばれる古資料の中に、呉國との交流の記録があったのでしょう。

『日本書紀』や『古事記』の記事から逆推しますと記紀編纂者達は、それらの記録を『魏志倭人伝』と、同時代の呉國との交流記録と、思い込んだのでしょう。
彼らは編纂作業のうちに、『魏志倭人伝』を参考資料として用いたことは間違いありません。『魏志倭人伝』の記事に対応する資料はないかと、『帝紀・旧辞』と呼ばれる膨大な資料を何度もひっくりかえして探したわけです。

従って「呉國」の文字を発見したときには、「魏國」のかわりに「呉國」との通行の記事を発見した。これこそ三国時代の呉國、孫権が建てた呉国との交流記事、と頭から思い込んでしまったのでしょう。
だから呉國関係の記事は、『記紀』のなかでも位置関係を誤って、整合性のない、つじつまの合わない記事となってしまったわけです。

しかしその『帝紀・旧辞』のなかの呉國関係の記事は、春秋時代の呉國との通交記事であったと考えられます。
そう考える一つの理由は動機です。
三国時代の「呉國」には、倭國まで通交しなければならない強い動機は見つかりません。しかし『記紀神武東征』にある「稲飯命」か、または「三毛入野命」が、春秋時代の「呉國」を建てた仲雍であれば、この春秋時代の『呉國』には当然生命の危険をおかしても倭国と通交しなければならない、強力な動機があったわけです。


いま一つの理由は交通能力です。
三国時代でも、春秋時代でも、呉國から日本列島へ行くコースは、長江の河口付近から、中国大陸の沿岸沿いにいったん北上し、山東半島から朝鮮半島へ黄海を横断し、朝鮮半島の西岸沿いに南下し、朝鮮半島南岸から対馬をへて九州へ渡海してくるコース以外は不可能であったでしょう。
すなわち、建造船技術や、航行技術は三国時代の呉国より約七百年前の春秋時代の呉國の方が劣っていると考えられますが。交通能力はそれを妨害する勢力との相対的な関係があります。
三国時代の呉國には北の山東半島付近には『魏國』という強敵がありました。夜陰等を利用して、その沿岸を突破しても、山東半島の対岸である朝鮮半島にも魏國の出先機関である帯方郡がありました。この双方の眼をかすめて、沿岸を突破するのが、既に不可能であったでしょう。

さらにその南側の朝鮮半島南部には、「馬韓五十余國、辰韓十二國、弁韓十二國」を擁する『古代韓国』がありました。本ホームページの『第二章古代韓国の歴史』にも述べましたが。彼らは紀元前十二世紀から紀元前二世紀までは、遼東の地で豊かに生活していました。
彼らはその豊かな環境が永遠に続くと信じていましたが。中国からの亡命者『衛満』を受け入れたために、『衛満』の奇襲攻撃を受け、国土を奪われ朝鮮半島へ脱出してきたわけです。

従って中国人に対しては強い不信感と、大変な軍事的警戒心をもっていました。よく知られていますように、『魏志倭人伝』や『魏志韓伝』にある「韓国に関した距離記事」は途方もない大間違いをしていますが。これは古代韓国が、魏国船の沿岸航行を許さなかったからです。魏国船が日本列島まで往来していたのであれば、このような大間違いを生じるわけがありません。
古代韓国は隣接していた帯方郡とは、友好関係にありましたが、その船舶の通行も許さなかったのです。いわんや友好関係も、もたない呉國の船が日本列島まで来れることは、絶対にあり得なかったでしょう。

片方の春秋時代の呉國は、当時には強力な水軍を持っていました。おそらく春秋時代に水軍と言えるほどのものを持っていたのは、この呉國だけでしょう。山東半島付近には「斉國」という強力な國がありましたが、海戦の経験は乏しく、剽悍な呉の軍船を海上で、妨害しなければならない、という考えもなかったでしょう。

また当時『箕子朝鮮』は遼東に住んでいた時代ですから、朝鮮半島は軍事的には空白地帯でした。

ですから日本列島まで航行してくる能力は、春秋時代の呉國にはありましたが、三国時代の呉國には無かったと考えられます。
おそらく『古事記』雄略天皇の巻にある、「此の時、呉人参り渡り来つ。其の呉人を安けく呉原に置きたまいき。故、其の地を號けて呉原と謂う也。」(『日本書紀』雄略紀十四年にも同様の記録がある)は。
春秋末期「呉國」が滅亡するときに「呉王夫差」は自刃するのですが、その時に、妻子を本家にあたる日本列島へ亡命させたのでしょう。その呉王の遺族を受け入れた記録であったと思われます。

『史記』呉太伯世家に「(夫差)二十三年(BC473)十一月丁卯、越、呉を破る。越王句践、呉王夫差を甬東に遷し、百家を予え之に居らしめんと欲す。呉王曰く、孤老いたり。君王に事うること能わざるなり。吾、子胥の言を用いずして、自ら此に陥りたることを悔いる、と。遂に自ら剄ねて死す。」

とあります。呉王夫差は敗北を天命と受け入れたのでしょう。彼自身も日本列島へ逃れようとすれば、当然可能であったでしょう。彼の水軍は当時中国一の強力な戦力を持っていましたから、彼の日本列島亡命を妨げる力は、越軍といえども持っていなかったでしょう。
しかし夫差は、「天命我を去れり」と知ったとき、国民を捨てて自分だけおめおめと生き延びたいとは思わなかったのでしょう。死んで国民やご先祖に詫びる覚悟をきめたのでしょう。しかし残される妻子が不憫でした。

自分が自決する前に王妃と王女を日本列島へ送り届けよ。と部下に命じ、「自ら剄ねて死んだ。」のでしょう。その呉の王妃や王女を受け入れた記録が、「呉人参り渡り来つ。其の呉人を安けく呉原に置きたまいき。故、其の地を號けて呉原と謂う也。」であったと思われます。
ですから、この呉関連の記事は正しく解釈されておれば、『神武天皇紀』以後の数代、欠史時代などと呼ばれている天皇の代に嵌められていたものでしょう。


いま一つの理由は、『春秋左氏伝』哀公七年(BC488)の伝文に「大伯は端委して周}を以て治むるに、仲雍は之に嗣ぎて、髪を断ち身に文し。云々」(大伯端委以治周禮、仲雍嗣之、斷髪文身。云々)という「子貢」の言葉があります。
子貢はよく知られているように孔子の高弟です。

「端委」とは辞書によれば、「周代に朝廷で用いた礼服。端は正しいこと、委は長くて地にゆだねるさま。一説に玄端の衣と委貌の冠。」とあります。
「太伯」は周王朝の正装をして、周王朝の礼法に則って治めていたのです。

周王朝の礼法は、いつ頃、制定されたのか正確には分かりませんが。しかしいかに早くとも、周の武王が殷帝国を破り、周王朝を開いたのちでしょう。
これから考えても、『太伯』とは「武王」の祖父「王季」の長兄。というのは時代的にはつじつまが合いません。当時、魯の人々は「呉國」の事情に通じていた上に、これは子貢と呉の大宰との問答に出てくる言葉です。ですから当時の呉國に伝えられていた「太伯」についての原伝承は、この通りであったに違いありません。

すなわち『史記呉太伯世家』や『周本紀』に載せられている「呉太伯と太伯弟仲雍、皆、周の太王の子にして、王季歴の兄也」という伝承は、春秋時代末期の孔子の時代には無かったのです。
孔子以降、戦国時代から前漢の初期までの、約400年の間に附加されたものでしょう。


泰伯の三譲


さて『論語』「泰伯篇」でよく問題になるのは、「三たび天下を以て譲る」です。太伯が季歴(王季)に継承権を譲ったのは一度でないか、「三たび」とは間違いだ。などとよく言われます。
注釈書によれば、朱子は「三譲は固遜を謂う」とし、鄭玄は「大王疾む。泰伯呉越にゆきて薬を採る。大王没して返らず。季歴喪主となる。一譲なり。季歴之に赴くも、来たりて喪に奔らず。二譲なり。喪を終わるの後、遂に髪を断ち、身に文す。三譲なり。」などとあります。
これらの学者の説は、歴史が曲がってしまった後の、曲がりに気づかない「机上の空論」というほかありません。

この三譲については、これを述べた孔子は相当正確な知識があったと考えなければなりません。

まず「子曰く、泰伯は其れ至徳と謂う可きのみ。三たび天下を以て譲る。民得て称する無し。」(子曰、泰伯其可謂至徳也已矣、。三以天下譲、民無得而称焉、
にいう民とは、当時の中国の民のこと。大雑把に言うと、黄河の流域、現在の河南省や山東省あたりに在った諸国の民と考えてよいでしょう。
呉國(現在の蘇州付近)の民は、もちろん泰伯(太伯)の偉大さはよく知り、讃えていたに違いありません。

春秋時代の中頃まで、中国の人々は呉國とは交際が無く、未開の後進國と考えていたのです。
『史記呉太伯世家』によれば、仲雍より十七代目が、寿夢です。
「寿夢立ちて、呉始めて益々大にして、王と称す。」「王寿夢二年(BC584)、楚の亡大夫申公巫臣、楚将子反を怨みて晉に犇る。晉より呉に使いし、呉に兵を用い車に乗るを教う。其の子をして呉の行人為らしめ、呉、是に於いて、始めて中国に通ず。」
と王寿夢の代になって呉は中国と通交するようになったのです。


『呉國』は春秋時代中期までは、南方の未開の野蛮国、と考えられ中華諸国との通交はなかったのです。それが春秋後期になりますと、メキメキと力をつけ、当時、中原諸国に恐れられていた強国の『楚國』も、勃興してきた『呉國』を恐れて都を奥地に遷都せねばならない状況でした。
それでも中央の諸国から見れば、所詮は野蛮な田舎大名、中央政治に発言力を持ってくるわけはない。と軽く見ていたのです。

ところが『呉國』最後の王となった「夫差」が立ちますと、『楚國』や『越國』を相手に連戦連勝の敗け知らず、『越國』などは降伏して「臣妾たらんと乞う」すなわち越王は臣下となり王妃は妾となることを乞う、というありさまでした。
「呉王夫差」はその勢いをかって、矛先を中央に転じ、BC484年『春秋左氏伝哀公十一年』に、『呉國』と『魯國』の同盟軍は、艾陵の地で『齊國』と戦い、破ります。この戦いは春秋時代を通じて最大の激戦でした。春秋屈指の大国であった『齊國』は壊滅的な敗北のために力を失って、国権を『田氏』に簒奪されてしまうわけです。

この時期の魯国では、「呉王夫差」を古今無双の大英雄と崇拝していたでしょう。
「孔子」が永年の天下遊歴の後、故郷の『魯國』に帰ってきたのは、この艾陵の戦いの年の暮れですから、当時、魯國の人々は、同盟国である呉國については相当正確な知識を持っていたでしょう。
呉國人は「先祖の泰伯(太伯)は三たび天下を以て譲った」と言い。それには信ずべき理由がある。と孔子は考えたに違いありません。そうでなければ「泰伯は其れ至徳と謂う可きのみ。三たび天下を以て譲る。民得て称する無し。」(子曰、泰伯其可謂至徳也已矣、。三以天下譲、民無得而称焉、)」と孔子が讃えるわけはないでしょう。


さて「泰伯は其れ至徳と謂う可きのみ。三たび天下を以て譲る。」の中の、一度は『春秋左氏伝』「荘公四年の伝文」、「紀侯、斉に下ること能はず。國を以て紀季に与う。」とありますように末弟に国権を与えた件であると推測できます。後の二度は当時の中国史から推測しなければなりません。またそれにより日本民族が東遷してきた当時の時代背景も判明するわけであります。

いま一つ問題になるのは「民得て称する無し。(民無得而称焉、)」です。
一般には、太伯は謙譲の美徳を発揮された。そのために民は太伯の偉大さを知らなかったから、ほめたたえるものはなかった。これが至徳である。徳の徳たるの名のあるのは、真の徳ではない。孔子が究極の理想としたのはこの「至徳」であったろう。
というような注釈は、よく見ます。
当時の事情から考えますと、孔子の母国である『魯國』の人々は、『呉國』の先祖である「太伯」については、それまでは、よく知らなかったのでしょう。
呉と魯は同盟を結びますが。同盟といっても魯國は呉國の属国のような立場でした。太伯についての伝承を孔子らは「呉國」から伝えられたと思われますが。呉国人は「泰伯は三譲した。」と主張していたに違いありません。

また「中国の民」は、それまで「太伯」についてはよく知らなかったわけですが。一般の人々のみではなく、孔子のように博識な人物も、知らなかったのは「太伯」が謙譲の美徳を発揮されたから、だけではつじつまが合いません。

当時の事情や、『史記五帝本紀』『史記封禅書』を総合して考えますと、東周王朝の史官達の間では、紀候が大去された直後から、紀候(太伯)のことを「黄帝」という名称で記録されていたのでしょう。
当時の「周王朝」の史官達は、斉の暴君「襄侯」を恐れて、当時の事情を直叙ではなく、比喩的に紀候(太伯)を『黄帝』と仮称し、周王室を『神農氏』と仮称して記録にのこしたのでしょう。

すなわち倭国(日本)では、この方を「太伯」として伝承しており。春秋時代の呉国も「太伯」として伝承してしていましたが。春秋時代の呉国は、春秋時代末期に滅亡しました。
本来であれば、中国での「太伯伝承」はこのときに途絶えていたのでしょうが、たまたまその直前に「呉国」と「魯国」は同盟を結びました。このとき「太伯伝承」の一部は魯国に伝わっていたわけです。
おそらく孔子学派の手でその伝承は後々まで伝えられたのでしょうが。戦国時代の間に種々の附加があり、『史記』に記録されている伝承に変化したのでしょう。


しかし当時の中国すなわち、現在の河南省や山東省にあった国々では「太伯」という名前での伝承がなく、同じ人物を「黄帝」という名前で伝承していたのです。ですから「孔子」や当時の魯国の人々は「太伯」と「黄帝」は別人と考えていたのでしょう。

はるか後世の『記紀』編纂時の人々が、日本人のルーツを発見出来なかった根本的な原因は、ここに発するのでしょう。


『紀候』と『太伯』と『黄帝』


さて、BC690に「紀国」を大去された『紀候』が黄帝であると言うと、日本や中国のすべての歴史学者から、おそらく「時代が違う。」と非難されるでしょう。
もちろん司馬遷が著した『史記』では「黄帝」は中国最古の帝王として『周王朝』や『殷帝国』より、はるかな大昔の人物と記録されています。
しかし、元々「黄帝」は『紀候』(太伯)の別称から出たものであることは、まず間違いありません。
 その点は、『史記五帝本紀』の冒頭の一節と、春秋時代初頭史を突き合わせれば、容易に推測できます。


『史記五帝本紀』の冒頭にある。
 「黄帝ハ少典ノ子ナリ。姓ハ公孫、名ハ軒轅ト曰フ。生マレテ神霊、弱ニシテ能ク言イ幼ニシテ徇斉、長ジテ敦敏、成リテ聡明ナリ。軒轅ノ時、神農氏ノ世衰フ。諸侯相侵シ伐チ、百姓ヲ暴虐ス。而シテ神農氏征スル能ハズ。是ニ於テ軒轅乃チ干戈ヲ用フルコトヲ習イ、モッテ不享ヲ征ス。諸侯ミナ来タリテ賓従ス。而シテ蚩尤最モ暴ヲ為スモ、能ク伐ツモノナシ。炎帝諸侯ヲ侵陵セント欲ス。諸侯ミナ軒轅ニ帰ス。軒轅乃チ徳ヲ修メ兵ヲ振ヘ、五気ヲ治メ、五種ヲdエ、万民ヲ撫デ、四方ヲ度リ、熊・羆・貔・貅・チユ・虎ニ教ヘ、以テ炎帝ト阪泉ノ野ニ戦フ。三タビ戦ヒテ、然ル後其ノ志ヲ得。蚩尤乱ヲ作シ、帝ノ命ヲ用イズ。是ニ於テ黄帝乃チ師ヲ諸侯ニ徴シ、蚩尤ト、タク鹿ノ野ニ戦イ、遂ニ蚩尤ヲ禽殺ス。而シテ諸侯咸軒轅ヲ尊ビテ天子ト為ス。」(五帝本紀)


の部分が、「黄帝伝承」のなかで、最も古い部分と推測されます。本HP上では、便宜上この部分を『黄帝伝承原型』と呼ぶことにします。

 また『史記封禅書』の、
「黄帝、首山ノ銅ヲ采リ鼎ヲ荊山ノ下ニ鑄ル。鼎既ニ成リ龍有リ胡髯ヲ垂レ下リテ黄帝ヲ迎ウ。黄帝上リ騎ル、群臣後宮従イ上ルモノ七十餘人、龍乃チ上リ去ル。餘ノ小臣上ルコトヲ得ズ。乃チ悉ク龍髯ヲ持ツ、龍髯抜ケテ墮ツ、黄帝ノ弓ヲ墮ス。百姓仰ギ望ムニ黄帝既ニ天ニ上レリ、其ノ弓ト胡髯ヲ抱キテ號ブ。故ニ後世因ッテ其ノ処ヲ名ケテ鼎湖ト曰イ其ノ弓ヲ烏號ト曰フ」
という『黄帝」に関した部分は。元々春秋時代には、『黄帝伝承原型』と一体で、『黄帝伝承原型』の末尾の部分にあったものでしょう。
 戦国時代あたりに何かの理由で分割され、前者は黄帝の伝記として記録されていたものを、司馬遷が採って『史記五帝本紀』の冒頭に載せ。後者は不老不死の神仙説話として伝えられていたものを、司馬遷が採って『史記封禅書』に載せ。別個の記録と思われるようになったものでしょう。
従って『史記封禅書』の黄帝に関した記録は、本HP上では『黄帝伝承原型末尾』と呼ぶことにします。

おそらく春秋時代に記録された『黄帝伝承原型末尾』では、黄帝は東海の彼方、「蓬莱」「方丈」「瀛洲」の三島へ行った。となっていたに違いありません。


さて「紀候大去」の後、新しく実力者になったのは「斉の釐候」の息子である「斉の襄候」です。襄候ははなはだ凶暴な人物で、些細な理由で人を殺しました。
周王朝の史官達は、直叙の形で書き残すことは、凶暴な「斉の襄候」の逆鱗に触れ危険があると恐れたのでしょう。
「斉の襄候」はその凶暴な性格ゆえに、数年後に部下の反乱にあい、殺されます。そのあとを継ぐのが「春秋の覇者」になった「斉の桓公」です。周王朝の史官達は、「斉の襄候」や「斉の桓公」を憚り。しかし「紀候」の功績はどうしても書き残しておきたい。そういう理由で比喩的な表現にして書き残したのが、『黄帝伝承原型』でしょう。
すなわち周王朝を神農氏。紀候を黄帝。斉候を炎帝。と仮称で呼ぶことにしたのです。

まず理解しやすいように、『黄帝伝承原型』と「春秋初頭」の歴史と、同じ事件、同じ人物と推測されるものを表にしておきます。

黄帝伝承原型 春秋初頭時代の歴史
神農氏 周王室
黄 帝(軒轅) 紀候・(太伯)
蚩 尤 鄭武公・鄭荘公・周公黒肩
阪泉の野の戦い 『春秋経』桓公十三年(BC699)、春二月の戦い
炎  帝 「斉侯」(釐公祿父)
蚩尤ト琢鹿ノ野ニ戦イ、遂ニ蚩尤ヲ禽殺ス。 (史記』周本紀)「莊王四年、莊王、周公黒肩ヲ殺ス
龍有り、黄帝上リ騎ル、龍乃チ上リ去ル。 『春秋経』荘公四年(BC690)紀候大いに其の国を去る

以上を頭の片隅において、「春秋初頭史」を検討して頂ければ、この『黄帝伝承原型』が、同じ歴史から出ていることを理解頂けると思います。


春秋初頭史


さて「春秋初頭史」ですが。これの研究は見当たらないのです。これは日本だけではなく、おそらく中国においてもないのであろう、と思われます。この時代は人々の興味をひきにくい時代と考えられているのでしょう。
やむを得ませんから、はなはだ拙い解説ですが、当時の情勢を概観しておきます。

     周王室の東遷  (1
 春秋時代とは、 元々は孔子が編纂した歴史書『春秋経』に記録されている期間、すなわちBC722年からBC479年までのことです。
 しかし一般に政治史では、周王室が東遷し、平王が即位したBC770年から、晉国が韓・魏・趙の三国に分かれたBC453年までを「春秋時代」として扱っています。

 さて周が東遷しなければならなくなったのは、平王の父、幽王のときに周が衰えたからです。
 『史記』周本紀によれば、
 「幽王、襃ジ、ヲ嬖愛ス。襃ジ、子伯服を生ム。幽王、太子ヲ廃セント欲ス。太子ノ母ハ申侯ノ女ニシテ后タリ。ノチ幽王、襃ジ、ヲ得テ、コレヲ愛シ。申后ヲ廃シ、アワセテ太子宜臼ヲ去リ、襃ジ、ヲモッテ后トナシ、伯服ヲモッテ太子トナサント欲ス。周ノ太史伯陽、史記ヲ読ミテ曰ク『周ハ亡ビン』ト。……中略……ツイニ申后オヨビ太子ヲ廃シ、襃ジ、ヲモッテ后トナシ、伯服ヲ太子トナス。太史伯陽曰ク『禍成レリ、イカントモス可キ無シ。』」
 「襃ジ、ハ笑ヲ好マズ。幽王、其ノ笑ハンコトヲ欲ス。万方スレド故ラニ笑ハズ。幽王、烽燧、大鼓ヲ為リ。寇ノ至ル有レバ、則チ烽火ヲ挙グ。諸侯悉ク至ル。至レドモ寇ナシ、襃ジ、乃チ大イニ笑フ。幽王、之ヲヨロコビ、為ニシバシバ烽火ヲ挙グ。其ノ後信ゼズ。諸侯マスマス亦至ラズ。幽王、カク石父ヲ以テ卿ト為シ、事ヲ用イシム。国人皆怨ム。石父、人トナリ佞巧ニシテ、善ク諛イ利ヲ好メルニ、王、之ヲ用ウ。又、申后ヲ廃シ、太子ヲ去ルヤ、申侯怒リ、ソウ・西夷・犬戎ト与ニ幽王ヲ攻ム。幽王、烽火ヲ挙ゲテ兵ヲ徴ス。兵、至ルモノナシ。ツイニ幽王ヲ驪山ノ下ニ殺シ、襃ジ、ヲ虜ニシ、コトゴトク周ノ賂ヲ取リテ去ル。」


 このように襃ジ、の妖しい魅力にとりつかれた幽王は、政を乱して西周王朝は滅亡したのです。
 「ココニオイテ諸侯スナワチ申侯ニ即キテ共ニモトノ幽王ノ太子宜臼ヲ立テ、コレヲ平王トナス。モッテ周ノ祀ヲ奉ゼシム。平王立チ、東シテR邑ニ遷リ、戎ノ寇ヲ辟ク。平王ノ時、周室衰微シ、諸侯、彊キハ弱キヲ并セ、齊楚秦晉、始メテ大ナリ。政ハ方伯ニ由ル。四十九年、魯ノ隠公、位ニ即ク。五十一年、平王崩ズ。」 


 こうして平王は洛邑に遷りました。すなわち後に長安の都となる地を捨て、後に洛陽の都となる地に遷都したのです
「平王ノ時、周室衰微シ、諸侯、彊キハ弱キヲ并セ、齊楚晉秦、始メテ大ナリ。政ハ方伯ニ由ル。」
と『史記』「周本紀」は言うのですから、この平王の五十一年間は、周王朝時代九百年間を通じての、最大の曲がり角であったのです。平和な西周時代から、戦乱の春秋戦国時代へ落ちこんだのは、この平王五十一年間です。
 平王没後、三十年目にその故国を大去した人々、すなわち日本人の先祖達が分離、独立するに至った遠因が、この時期にあることも容易に推測できるでしょう。
この時代の状況がよく判らないことも、日本民族の発祥地を不明にした原因の一つでしょう。

それほど重要な時期であるにも関わらず、この「春秋初頭史」に関心を持つ人は少なく、あまり研究されていません。
しかし日本民族の起源を探そうとすれば、この時代の研究なくして不可能と云っても過言ではないでしょう。また、日本民族の起源は中国本土ではない。と否定するにも、この時代の研究なくして不可能と云わなければならないでしょう。


  周王室の東遷  (2)

さて『史記周本紀』に「ココニオイテ諸侯スナワチ申侯ニ即キテ共ニモトノ幽王ノ太子宜臼ヲ立テ、コレヲ平王トナス。モッテ周ノ祀ヲ奉ゼシム。平王立チ、東シテ洛邑ニ遷リ、戎ノ寇ヲ辟ク。」というのですから「周室東遷」の最大の原動力は「申候」であったに違いありません。

前の「天照大神」でも述べましたように、「申国」は姜姓諸国の本宗です。すなわち「紀国」と同族です。西周時代には、申国は中原地方の国々の中心的な立場にありました。沿海地方における紀国と、その立場には共通した点が多かった、と思われます。
「申国」から見ていく理由の一つは、それにより「紀国」の事情をある程度、推測できるからです。

また「申国」は周室東遷に最も重要な役割を果たした国です。この国の歴史を見ておかなければ、西周から東周へ移る事情も正しく理解できません。

それほど重要な國であるにもかかわらず、「申國」についてはあまり注目されていません。研究もされていないようで、よく分からないのです。


さて当時の都は、後の長安とか洛陽に比べれば、はるかに小規模なものであったでしょうが。全中国の中央政権の都です。移転や建設に要した政治力や費用も、当時としては膨大なものであったでしょう。無力な平王を助けて、その大事業を行ったのは、『周本紀』から考えれば、平王の母方の祖父であった申侯であったに違いありません。

 「是ニ於テ、諸侯乃チ申侯ニ即キテ、共ニ故ノ幽王ノ太子宜臼ヲ立ツ。是ヲ平王ト為ス。以テ周ノ祀ヲ奉ゼシム。平王立チ、東シテ洛邑ニ遷リ、戎ノ寇ヲ辟ク。」
 
というのは、諸侯を従わせる実力が申侯にあったから、諸侯が従ったわけです。いったん廃嫡されていた宜臼を王にしたのですから、申侯は強力な政治力を発揮したのです。
 東遷の采配は、ほとんど申侯に頼ったのでしょう。申侯の強力な政治力があったから、西周王朝下の旗本達も、陝西にあった父祖伝来の領邑地を捨て、中原へ東遷したのでしょう。
『史記』「周本紀」の記事からすれば、そのような事情であったに違いありません。


申  國


申侯の領国は「謝」、現在の河南省南陽市であった、とするのが定説となっています。その根拠は『詩経』大雅、『スウ高』であろうと思われます。

 しかしこの『スウ高』を総合的に判断すれば、「謝」は。申侯がこのとき、城主に任命され赴任した赴任地、新領土で、旧来からの本貫地は別にあった。すなわち『西周史』と総合して考えれば、のちの「洛陽」、当時の「洛邑」とか「河洛の地」と呼ばれている土地が「申國」の本来の領土であったでしょう。
前章の『天照大神』でも述べましたが、申國の本拠地は「黄河と洛水の間」であったのでしょう。そうでなければ、ツジツマは合いません。 また『記紀神話』でいう「高天ヶ原」はこの地であったのでしょう。
おそらくこの洛水のほとり一帯は、殷帝国時代の後期ごろからは、姜族宗家の本拠地であったのでしょう。
 周の武王が殷帝国を倒した戦い。いわゆる「殷周革命」に際して、天照大神は局外中立を通告して、ご自身は嵩嶽に避難されていたわけです。周が戦いに勝った直後、周武王の要請があり、天照大神は嵩嶽から下山されました。
 姜族は最も信頼できる部族である。周族は姜族と固く同盟を結ぶことにより、始めて周王朝の磐石の基礎を築くことができる、と考えていた武王は。姜族宗家に対して、直ちに本領安堵のかたちで「申」と「甫」(呂)を建てたのです。
 
少し長いが『詩経』大雅、スウ高の全文を引きます。
  スウ高

@ スウ高ナルハ維レ嶽。駿イニ天ニ極レリ
  嶽ヨリ神ハ降リテ。甫及ビ申ヲ生メリ 
  維レ申及ビ甫ハ。維レ周ノ翰ナリ 
  四國ヲ于ニ蕃イ。四方ニ于ニ宣ベタリ
A ビビタル申伯。王之ニ事ヲ纉ガシム
  于ニ謝ニ邑シ。南國是レ式トラシム
  王召伯ニ命ジ。申伯ノ宅ヲ定メ
  是ノ南邦ニ登リ。世其ノ功ヲ執ラシム
B 王申伯ニ命ジ。是ノ南邦ニ式ラシメ
  是ノ謝人ニ因テ。以テ爾ノ庸ヲ作レ
  王召伯ニ命ジ。申伯ノ土田ヲ徹メヨ
  王傅御ニ命ジ。其ノ私人ヲ遷サシム
C 申伯ノ功。召伯是レ営ム
  其ノ城ヲ俶ムル有リ。寝廟既ニ成リヌ
  既ニ成リテ藐藐タリ。王申伯ニ錫ウ
  四牡キョウキョウタリ。鉤膺濯濯タリ
D 王申伯ニ遣スハ。路車乗馬アリ
  我爾ノ居ヲ図ルニ。南土ニ如クハ莫シ
  爾ニ介圭ヲ錫ウ。以テ爾ノ宝ト作セ
  往ケヤ王舅。南土ヲ是レ保ンゼヨ
E 申伯信ニ邁ク。王ハ、ビ、ニ餞ケセリ
  申伯南ニ還リ。 謝ニ誠ニ歸ケリ
  王召伯ニ命ジ。申伯ノ土疆ヲ徹メ
  以テ其ノ粮ヲ峙メ。式レ其ノ行ヲ、スミヤカ、ニス
F 申伯番番タリ 。既ニ謝ニ入ル 
  徒御タンタン、タリ 。周邦咸喜ブ 
  戎良翰有リ  。 不顯ナル申伯ハ
  王ノ元舅 。文武是レ憲ナリ 
 G 申伯ノ徳。柔恵ニシテ且ツ直
  此ノ萬邦ヲ揉ゲ。 四國ニ聞エタリ
  吉甫誦ヲ作リ。其ノ詩孔碩イナリ
  其ノ風肆好シ。以テ申伯ニ贈ル

@章は、殷周革命直後、天照大神は嵩嶽から下山されました。その天照大神に対して、本領安堵のかたちで「申」と「甫」の両国を建てた事情を謡うわけです。
以後、西周王朝時代を通じて申と甫(呂)は、『詩経』大雅、スウ高に「嶽ヨリ神ハ降リ、甫及ビ申ヲ生ズ。申及ビ甫ハ、維レ周ノ翰」とうたうように、西周王朝を支える幹でありました。

A章以下は、 このとき庸(城)を築き、土田(耕地)を開拓し、旧から居住していた謝人以外に、「傅御ニ命ジ其ノ私人ヲ遷サシム」とあるように、新しく住民を増強しました。土疆(領土の境界)を定め、粮(食料)を貯えさせたのです。
 「王申伯ニ命ジ」とあるように、王命により、申伯は謝に入国したのです。その目的は、「于ニ謝ニ邑シ、南國是レ式ラシム」「申伯ノ宅ヲ定メ、是ノ南邦ニ登リ、世其ノ功ヲ執ラシム」「往ケヤ王舅、南土ヲ是レ保ンゼヨ」とありますから、南方防衛の中心となるためでした。


この「謝」城に、「申候」が入った記事は『史記周本紀』にはありません。しかし『詩経』大雅、スウ高と同時代の詩,『詩経』の大雅・江漢や、小雅・黍苗に、これと関係のある記録があります。
 例えば黍苗には「粛々タル謝ノ功、召伯之ヲ営ム。烈烈タル征師、召伯之ヲ成ス」とあり、この召伯は『スウ高』で謝城を営んだ召伯と同一人物であるに違いありません。
 これから考えますと召伯は、謝城建設の功の他に、この時期には将軍として、征討軍をひきいて功績をあげていたのです。
 そうしてみると、これはまた『江漢』に
「江漢浮浮タリ、武夫滔滔タリ。安ンズニ匪ズ、遊ブニ匪ズ、淮夷ヲ來リ求ム。既ニ我車ヲ出シ、既ニ我ガ、ハタ、ヲ設ツ。安ンズニ匪ズ、舒ムニ匪ズ。淮夷ニ來リ鋪ネントス。」

「江漢湯湯タリ、武夫洸洸タリ。四方ヲ経営シ、成ヲ王ニ告グ。四方既ニ平ラギ、王ノ國庶ド定マル。時ニ争イ有ルコト靡シ、王ノ心載チ寧シ。」

「江漢ノ滸、王召虎ニ命ズ。式レ四方ヲ辟キ、我ガ疆土ヲ徹セヨ。疚マシムルニ匪ズ、棘ナラシムニ匪ズ。王國ニ來リ極レ、于ニ疆リ于ニ理メ、南海ニ至レ」−以下略−

 とうたわれる、この召虎という将軍は『黍苗』や『スウ高』に出てくる召伯と同一人物でしょう。すなわち、このとき召伯虎は、淮水の流域から更に漢水、揚子江のあたりまで平定した、と讃えているわけです。
 また『大雅』烝民は、「仲山甫」という将軍の功績を、讃えた詩ですが。その末尾に「吉甫誦ヲ作ル」とあります。この吉甫という詩人は、『スウ高』を作った吉甫と同一人物でしょう。
 『烝民』のなかに「王、仲山甫ニ命ジ、彼ノ東方ニ城カシム」とか「仲山甫、齊ニ徂キ、式ッテ其ノ帰ヲ、スミヤカ、ニス」というような句があります。
 これらを総合して考えますと、この時期に「召伯虎」を将とする軍団は、江漢地方を征討した後、謝に城を築きました。謝城には、宣王の舅である申伯を城主として入れ。この方面の防衛の中心としました。
 召伯虎を側面から応援すべく、「仲山甫」を将とする軍団は、淮水あたりを討伐した後、そこに城を築き。さらに齊侯に、対淮夷防衛に協力するよう求めた後に、軍団は周都へ引上げた、ということでしょう。
このような事情を綜合しますと、「申伯」を謝城に入れたのは、周の宣王の初期と推測されます。

おそらく、宣王の時代に「召伯虎」や「仲山甫」を将とする大軍団を、派遣して江漢地方を征討したのでしょう。その後、この地方を防衛する中心として、「申伯」を謝に入城させたのでしょう。
             申 国(2)

そのようなわけで「謝」に城を築いて、申伯をこの方面の主将としたのでしょう。
しかし『大雅スウ高』から見る限り、西周王朝は、城を築き、農地を整備し、農民を入れ、万端の準備を整えた上で、申伯に入城を命じたのです。
ですから、申國の農民や國人全部を引き連れた、お国替えではなく、少数の家臣団のみを伴った入国でありました。國人の大部分は旧の本拠地に残していたのです。


 西周時代には、この「申」と「甫」(呂)は中原地方では最大の大国であったでしょう。人口も多く、もちろん、いざというときに動員できる兵力も大きかったでしょう。
また「謝」(南陽市)までの距離も近く、「謝」から危急を知らす烽火でもあがれば、直ちに救援軍が駆けつけることができました。
これは陜西の王幾からの遠路を救援軍がかけつけるのと違って。漢川地方の人々にとっては心強かったでしょう。
また当時の中原諸國をまとめる立場に、申伯はあったのです。申國の軍隊が駆けつければ、中原の諸侯の軍隊も、続いて馳せ参じたのです。
ですから、申伯が「謝」に入ることにより、西周王朝下の諸国はみな安心したのです。召伯虎の大軍団が王幾へ引き上げても、申伯が居る限り心配ないと、不安は一掃されたのです。すなわち『スウ高』にうたう「申伯番番タリ、既ニ謝ニ入ル。徒御憚憚タリ、周邦咸喜ブ」であります。

 この宣王が行った南方対策は成功しました。その後、西周王朝の崩壊、周室東遷という大変動があったにもかかわらず、この江漢地方は平王の中期まで約八十年間は、平和で安定していたのです。


このように、江漢地方は安定しましたが。西周王朝の王畿では波瀾がありました。
申侯家は代々、西周王朝の西戎対策の中心人物を出していました。その中心人物であった申伯が謝城に転出したために、西戎の一部が動揺したのでしょう。
当時の戎夷対策は、武力のみではうまく行きませんでした。攻撃を加えても、彼らは、更に奥地へ逃げ去るだけで、根絶することは不可能でありました。恩威並びに行う、というやり方でなければ、成功しなかったのです。強力な武力を示すと共に。災害のあった年など、救援の手を差し延べ恩を施し、常に面倒を見ておくことが大切であったに違いありません。

 『春秋左氏伝』昭侯二十三年の伝文に、
「古ハ、天子ハ守ルコト四夷に在リ、天子卑シクシテ守ルコト諸侯ニ在リ。諸侯ハ守ルコト四鄰ニ在リ、諸侯卑シクシテ守ルコト四竟ニ在リ。其ノ四竟ヲ慎ミ、其ノ四援ヲ結ビテ、民、其ノ野ニ狎レ、三務、功ヲ成シ。民、内憂無クシテ、又外懼無クバ、国焉ゾ城クコトヲ用イン」というのがあります。

 昔は天子の守りは四方の夷が務めた。天子が弱体化してから諸侯が防衛することになった。諸侯は隣国を自国の守りとしていたが、世のなかが衰えてきたのちは、国境で防衛するようになった。四方の隣国との外交を慎みぶかく行い、かたく同盟を結んでおいてこそ、人民は安心して田畑にでることができ、春夏秋の農事を成功さすことが出来るのである。内憂外懼がないようにしておけば、城を築く必要もないのである。という趣旨であります。

 西周王朝の最盛期には、四方の夷狄諸族と信頼関係があり、国土防衛の前衛を彼らが務めてくれたのです。
 そのために西周王朝下の農民は、安心して野良仕事に出ることができました。敵対的な夷狄が、耕作地近くの山野に出没するような状況であれば、農民は恐れて農耕作業も充分には行えなかったのです。

 『史記』周本紀に「(宣王)三十九年、千畝ニ戦イ、王師、姜氏ノ戎ニ敗績ス」とあります。姜氏之戎とは、申侯や紀国と先祖を同じくする部族ですが、定住生活に入るのを嫌って、狩猟あるいは遊牧生活を続けている部族なのでしょう。
 ですから西戎のなかでも、特に申とは親しく、困ったことがあれば常に申侯を頼って面倒を見てもらっていたのでしょう。
 その申侯が謝城に転出したために、その後任者は姜戎に理解がなく、不満が重なり西周王朝との間が不安定になり。おそらく些細なことが原因で反乱を起こし、それを甘くみていた王の軍隊は敗れたのでしょう。しかし宣王は、その後も天下の王として君臨しつづけているのですから、この敗戦は大したことはなかったに違いありません。

 だが王畿の西戎対策は、強化しなければならない、ということで。申侯を陝西の都、宗周に呼び戻したのでしょう。
 申侯は新領土の「謝」の他に、西周初頭以来の本拠地が「洛邑」にありましたが、それぞれを家老職である卿大夫らに任せて、自分は宗周に常駐することになったのでしょう。
 この人物は、宣王の初期に「謝」に入居した申伯の息子で、『周本紀』幽王の条に出てくる「申侯」すなわち幽王の正妃である申后の父親、後の平王の外祖父にあたる人でしょう。


       申国 と秦國 


 さて申国を調べるとき、見逃すことのできない資料は『史記』秦本紀です。
「(秦の先祖)大駱、非子ヲ生ム。非子、犬丘ニ居ル。馬及ビ畜ヲ好ミ、善ク之ヲ養息ス。犬丘ノ人、之ヲ周孝王ニ言ウ。孝王、召シ、馬ヲ、ケン・渭ノ間ニ主ラシム。馬、大イニ蕃息ス。孝王、以テ大駱ノ適嗣ト為サント欲ス」


 「申侯ノ女、大駱ノ妻ト為リ、子成ヲ生ミ適タリ。申侯、乃チ孝王ニ言イテ曰ク、昔、我ガ先山ノ女、戎ノ胥軒ノ妻ト為リ、中刄註カム。親ノ故ヲ以テ周ニ帰シ、西垂ヲ保テリ。西垂、其ノ故ヲ以テ和睦セリ。今我マタ大駱ニ妻ヲ與エ、適子成ヲ生ム。申ト駱ト重ネテ婚シ、西戎皆服セリ。王ノ為ニスル所以ナリ。王其レ図レ、ト」


 このように周の孝王の時代(BC900年ごろ)秦の族長、大駱の正妻は申侯の娘でありました。更に数代前の先祖、胥軒の妻も申侯家の女でありました。
 秦は申侯家の姫君を妻に頂くことにより、西周王朝に帰服し。それを機縁に西戎諸族は皆帰順して西部辺境は安定した。これは西周王朝の為に、私(申侯)がしたのであります。王様もその点は理解して下さい。というのであります。      
 
 これから考えますと、西周王朝の初期から西戎対策は歴代の申侯が最高責任者となっていたのでしょう。『詩経』大雅、スウ高に「嶽ヨリ神ハ降リ、甫及ビ申ヲ生ズ。申及ビ甫ハ、維レ周ノ翰」とあるように。西周王朝を支える幹と讃えられるのは、このような実績があるからでしょう。

 そういうわけで、孝王も申侯の意見を聞き入れました。
 「是ニ於テ孝王曰ク、昔伯翳、舜ノ為ニ畜ヲ主ドリ、畜多ク息ス。故ニ土ヲ有チ、姓ヲ贏ト賜イキ。今其ノ後世、亦、朕ノ為ニ馬ヲ息ス、朕其レ土ヲ分チテ附庸ト為サント。之ヲ秦ニ邑シ、復タ嚴<m祀ヲ續ガシム。號シテ秦贏ト曰ウ。亦、申侯ノ女ノ駱ノ適タル者ヲ廃セズシテ、以テ西戎ヲ和ス。」
このように非子のときに、秦邑をもらい、始めて附庸国となりました。この記事から考えれば「申」が宗主国であったのでしょう。

 「秦仲立チテ三年、周ノ、レイ王無道ナリ。諸侯或ハ之ニ叛ク。西戎、王室ニ反キ、犬丘ノ大駱ノ族ヲ滅ボス」
秦仲の三年(BC842年)に、本家にあたる犬丘の一族は、滅亡しました。
 「周ノ宣王、位ニ即キ、乃チ秦仲ヲ以テ大夫ト為シ、西戎ヲ誅ス。西戎、秦仲ヲ殺ス。秦仲立チテ二十三年ニシテ戎に死ス。」
 「子五人有リ、其ノ長ゼル者ヲ荘公ト曰ウ。周ノ宣王、乃チ荘公ノ昆弟五人ヲ召シ、兵七千人ヲ與エ、西戎ヲ伐タシメ、之ヲ破ル。是ニ於テ復タ秦仲ノ後及ビ其ノ先大駱ノ地犬丘ヲ予エ、之ヲ并有セシメ、西垂ノ大夫ト為ス。」
 「襄公七年春、周ノ幽王、襃ジ、ヲ用イテ太子ヲ廃シ、襃ジ、ノ子ヲ立テ適ト為ス。シバシバ諸侯ヲ欺ク。諸侯之ニ叛ク。西戎・犬戎・申侯ト與ニ周ヲ伐チ、幽王ヲ、リ山ノ下ニ殺ス」
 「而シテ秦ノ襄公、兵ヲ将イテ周ヲ救イ、戦甚ダ力メテ功有リ。周、犬戎ノ難ヲ避ケ、東ノ洛邑ニ徙ル。襄公、兵ヲ以テ周ノ平王ヲ送ル。平王、襄公ヲ封ジテ諸侯ト為シ、之ニ岐ヨリ以西ノ地ヲ賜ウ」 


当時の事情を伝える歴史書は、互いに矛盾する点も多く、正確な史実ははっきりしませんが、『史記周本紀』と『史記秦本紀』を、総合して考えますと、だいたい次のようなことでしょう。

 西周王朝最後の王、幽王の王妃は申侯家の出で、太子宜臼を生んだ。
 『周本紀』や『秦本紀』から考えると。申侯家は、代々、王畿防衛の最高責任者を輩出した名家で、当時の申侯も諸侯の信望あつい実力者であった。
 しかし幽王が襃ジ、を寵愛して、伯服を生むと、幽王は襃ジ、を正妃にすえようとした。これは周法や当時のモラルに反した行為で、太史伯陽以下が諌めたが幽王はききいれない。
 ついに申后及び太子を廃して、襃ジ、を王妃に、伯服を太子にした。これで幽王から民心はますます離れて行ったが、襃ジ、の魅力の虜になっている幽王には判らない。
太子を廃された宜臼は、身の危険を感じたのでしょう。外祖父である申侯のもとへ逃げた。
申侯の本拠地は河南省の「洛邑」ですが、西周王朝の重鎮である申侯家は、王都宗周の近くに館をかまえていたのでしょう。
 
 ここまでは『国語』鄭語に「ソウ、ト西戎ト方ニ申ニ徳セントス。申・呂、方ニ彊ク、其ノ太子ヲ寤、スルモ、亦必ズ知ル可キナリ。王師若シ在ラバ、其ノ之ヲ救ウモ、亦必然タラン。」と。

史伯の予言として載っていますが。このような見通しができるのであれば、周が滅亡するわけがありませんから。これは後から、周の滅亡を振り返っての記録から出ているのでしょう。
 「ソウ、ト西戎」のなかに秦の襄公も入っているのでしょう。彼は申侯の附庸でしたから、「マサニ申ニ徳セントス」とするのも当然です。

 「申呂方ニ彊ク」呂は甫の別名、申と兄弟国です。この二国が、西周王朝時代を通じて、中原地方切っての強国であったことは、『詩経』とか『書経』とか、出土品の金文等から推測されます。
 
「其ノ太子ヲ、イク愛ス」イク愛とは、「かばい愛する」ということ。申侯らにとっては孫の太子宜臼は目の中にいれても痛くないほど、可愛くて不憫でならなかったのでしょう。


さて申侯は孫の太子宜臼を匿いましたが、宗周近くの館では、危険だと考えて、本国の洛邑へ伴って帰ろうとしました。
しかしその道中が、また危険です。本国から護衛を呼ぼうにも、急には間に合いません。それで近くの附庸國である「秦」を呼んだのでしょう。
「秦」にとっては平素から恩義のある宗主國である申侯からの依頼ですから、直ちに手勢を引き連れて、申侯の館へ駆けつけました。


 犬丘の砦で、関所番のように、つねに西戎諸族に睨みをきかせていた秦の一族が、大急ぎで申侯のもとに駆けつけましたから、付近にいた西戎の一部である犬戎族は、どうもおかしい、関所ががら空きだ、と気がつきました。
 一度、様子を見てやろう、と周の領土に侵入しましたが、反撃してくるものがない。そのまま王都宗周まで攻め入ってしまいました。不意をつかれた都では、烽火をあげて兵を呼ぼうとしましたが、烽火にはたびたび騙されているから、兵は集まりません。
 これでは守り切れない、と幽王は都から逃げ出しましたが、ついに驪山の下で追い詰められて、幽王は殺されました。

 このとき幽王に従って都を逃げ出した人々も殺されましたが、そのなかに「鄭」の桓公もいたわけです。
 勝ちに乗った犬戎は、その勢いで申侯の館にも押し寄せましたが、秦の襄公らが力戦して撃退します。
 ぐずぐずしていては危ない、というわけで。申侯は宜臼を伴って本国へ帰ることになり、秦の襄公はそれを護衛して送りました。
 
すなわち『史記』秦本紀にある「而シテ秦襄公、兵ヲ将イテ周ヲ救イ、戦甚ダ力メテ功有リ。周、犬戎ノ難ヲ避ケ、東ノカタ洛邑ニ徙ル。襄公、兵ヲ以テ周平王ヲ送ル。」
 「平王、襄公ヲ封ジテ諸侯ト為シ、之ニ岐ヨリ以西ノ地ヲ賜イ、曰ク、戎、無道ニシテ我ガ岐豊ノ地ヲ侵シ奪ウ。秦、能ク戎ヲ攻メ逐エ、即チ其ノ地ヲ有セ、ト。與ニ誓イテ之ヲ封爵ス。襄公、是ニ於テ始メテ国シ、諸侯ト、使・聘・享ノ礼ヲ通ズ。」

 秦はこのとき平王(宜臼)を護って戦い、さらに護衛して送った功を以て諸侯に取り立てられ、西戎を逐い払え、と命令されたのです。
これから考えますと、この時まで秦は諸侯になっておらず、附庸国の身分だったのです。

附庸国とは何かと申しますと『孟子』や『礼記』王制に、
 「天子ノ制、地方千里、公侯皆方百里、伯七十里、子男五十里、凡四等。五十里ニ能ハズハ天子ニ達セズ、諸侯ニ附ク、附庸ト曰ウ」という記事があります。
すなわち附庸である「秦国」は、天子とは直接に会うことは出来ず、諸侯に附いて、つまり「申侯」を通じて命令を受けていたわけです。


さてこの洛邑の地へ平王を引き取った申侯は。かつて、成王を引き取り周王朝の最盛期を築いた歴史が思い起こされたのでしょう。
前章の天照大神、で述べましたように、西周王朝の初期、武王の没後、幼い成王を引き取り、この洛邑の地に成周城を築いて、東方経営の根拠地としたのであります。
その後、全中国が安定し、成王が全周族から信任を得て、磐石の忠誠を得たのちに、再び西の宗周へもどり、その子、康王の代へかけて「成康の治」と呼ばれる、周王朝の最盛期を築きました。

その歴史を思い起こしながら、王幾内の混乱が収まった後には、平王を西の宗周へ戻し、周王朝の王として、立派な治世を敷いてほしい。「武王」「成王」に劣らぬ名君と全人民に仰がれる君主となってほしい、と願ったでしょう。

河洛の地にある「申國」「呂國」の両国は、諸侯のなかでは大きい國でした。しかし前にも述べましたように『孟子』や『礼記』王制には、
 「天子ノ制、地方千里、公侯皆方百里、伯七十里、子男五十里、凡四等。五十里ニ能ハズハ天子ニ達セズ、諸侯ニ附ク、附庸ト曰ウ」という記事があります。

これからしますと、諸侯のなかの大国で、方百里です。天子の領土は、方千里というのですから、諸侯の百倍あった、ということになります。
このように正確なものではなかったと思いますが。当時の王幾が耕地も広大で人口も膨大であったことは、春秋時代に、この王幾をほぼ受け継ぐことになった「秦國」が、戦国時代に、東方六国といわれる、他の全中国を相手に勝ち抜き、中国を統一したのを見ても、分かります。
すなわち全中国を相手にできる基礎国力を持っていたのです。

「申侯」は洛邑の地に平王を引き取ったのも、一時の仮住まいで、王幾の地が落ち着けば、先祖伝来の膨大な人民や広大な農地が待ち受けている、陜西の王幾に平王を戻すつもりであったに違いありません。

だから、(周平王が秦襄公に)「曰ク、戎、無道ニシテ我ガ岐豊ノ地ヲ侵シ奪ウ。秦、能ク戎ヲ攻メ逐エ、即チ其ノ地ヲ有セ、ト。」「與ニ誓イテ之ヲ封爵ス。」『史記秦本紀』

ということに、なるのでしょう。


       申国と秦国(2)


 『史記』秦本紀に「(秦襄公)十二年、戎ヲ伐チテ岐ニ至リ、卒ス。文公ヲ生ム。」
 「文公元年、西垂ノ宮ニ居ル。三年、文公、兵七百人ヲ以テ東ニ獵ス。四年、ケン・渭ノ會ニ至リ、曰ク、昔周、我ガ先、秦贏ヲ此ニ邑セリ。後卒ニ諸侯ト為ルヲ獲タリ、ト。乃チ之ニ居ランコトヲ卜ス。占ニ曰ク、吉ナリ、ト。即チ営ミテ之ニ邑ス。十年、初メテ、フ畤ヲ為リ、三牢ヲ用ウ。十三年、初メテ史有リ以テ事ヲ紀ス。民、化スル者多シ。十六年、文公、兵ヲ以テ戎ヲ伐ツ。戎敗走ス。是ニ於テ文公、遂ニ周ノ餘民ヲ収メテ之ヲ有チ、地、岐ニ至ル。岐ヨリ以東ハ、之ヲ周ニ献ズ」とあります。

 平王に、「宗周付近の西戎・犬戎を追い払え」と命令されていた秦の襄公は、その十二年(BC766年)、すなわち周王室東遷の五年後、準備はできた、と兵を引き連れて出陣した。「戎ヲ伐チテ岐ニ至リ、卒ス」というから、岐山のふもとにきたときに、急病を発して死んだのでしょう。
 「文公元年、西垂ノ宮ニ居ル」というのは、豪傑の襄公が死んだ、という事で犬戎らが勢いを得て反撃してくるかも知れない、と犬丘の砦の守備を固めたわけです。
 文公三年(BC763年)「兵七百人ヲ以テ東ニ獵ス」七百人の兵を率いて威力偵察を行った。翌四年、「ケン・渭ノ會」すなわち、ケン水と渭水の合流点、後の陳倉よりやや下ったところ、水経注によれば、ケン県故城があり、それが文公が邑を営んだところだという。岐まであと一歩のところに、本拠地を移したのです。
        
 「十六年、文公、兵ヲ以テ戎ヲ伐ツ、戎敗走ス。是ニ於テ文公、遂ニ周ノ餘民ヲ収メテ之ヲ有チ、地、岐ニ至ル。岐ヨリ以東ハ、之ヲ周ニ献ズ。」
 秦の文公十六年とはBC750年、周室東遷より二十年の後です。この年になって秦はようやく陝西の平野部から西戎を追い払い、周の遺民を収容したのです。先代の襄公の死亡などがあり、相当遅れたが平王の命令にこたえたのです。「岐ヨリ以東ハ周ニ献ズ」すなわち旧の西周王朝直轄領は、すべて取り返して周王室におかえしした。

 これはツジツマの合う話です。文公の父、故襄公が「而シテ秦襄公、兵ヲ将イテ周ヲ救イ、戦甚ダ力メテ功有リ。周、犬戎ノ難ヲ避ケ、東ノカタR邑ニ徙ル。襄公、兵ヲ以テ周平王ヲ送ル」
 「平王、襄公ヲ封ジテ諸侯ト為シ、之ニ岐ヨリ以西ノ地ヲ賜イ、曰ク、戎、無道ニシテ我ガ岐豊ノ地ヲ侵シ奪ウ。秦、能ク戎ヲ攻メ逐エ、即チ其ノ地ヲ有セ、ト。與ニ誓イテ之ヲ封爵ス」
 と言うのですから。平王(実際は申侯だったろう)から、犬戎を遂い払う命令をうけ、それを誓って諸侯に取立てられたのです。襄公が急死した為に遅れたが、その子の文公が、父に代わって誓いを果たしたのです。

 ツジツマが合わないのは、そのとき周王室が陝西へ帰らなかったことです。
 陝西には洛邑とは比較にならないほど広大な耕地があり、それを耕作していた周の農民は西戎の下で苦しんでいたのです。それら多くの周人は秦の文公の手で解放されたのです。西戎が駆逐され安全が確保された今、一日も早く陝西に戻り遺民を呼び集め、荒廃した農地を整備し、周王室の建て直しをはからねばならなかった、のではありませんか。


これが「周室東遷」後の最大の謎であります。

それを解くには、当時の東周王朝を実質的に支配していた「鄭」の武公の行動を、見ておかなければなりません。


     鄭国の武公と荘公 


前に見ましたように「周王室東遷」は、平王の外祖父である『申候」が行ったものであり。宗周(陝西省)から洛邑への移動は『申候』の付庸であった『秦の襄公』が部下を率いて護衛して行ったものです。
ところが歴史書などには、「周王室東遷」には『鄭国』が功績があった。と書いていることが多いのです。
さてこの『鄭国』が周の東遷に功績があった、という説ですが。そのような記事は『史記』にはありません。

 それでは何を根拠にそう考えられているか、と調べてみますと。その一つは
A、『春秋左氏伝』隠公六年(BC717)の伝文に「周桓公、王ニ言イテ曰ク、我ガ周ノ東遷ハ晉鄭ニ焉レ依ル」
B、『国語』周語・中、の襄王十三年(BC639)の条に、「鄭ノ武荘ハ平桓ニ大勲力有リ、我ガ周ノ東遷ハ晉鄭ニ是レ依ル。」
以上二点の記事があるからです。

しかし前節で見たように、「周、犬戎ノ難ヲ避ケ、東ノカタR邑ニ徙ル。襄公、兵ヲ以テ周平王ヲ送ル」と、陝西省から河南省への道中は、秦の襄公が兵を率いて護衛した。と『史記秦本紀』には、具体的に書いていますから。陝西省の宗周から河南省の洛邑まで遷る道中を護衛した功績は「秦」と、その宗主國である「申」にある事は間違いありません。従って、この件に関しては、晉鄭に功績はあるわけはありません。

さていま一つの根拠とされているのは、『史記鄭世家』に。
西周王朝の滅亡を予想して、その二年前に中原地方の「新鄭」へ移遷していた。という奇妙な記事があるからです。

すなわち『史記』には鄭が周室東遷に、功労があったという記事はありませんが。周王室に先行して移遷していた「鄭国」は相当な国力を持っていたから、いわば経済的なお世話を鄭国がしたに違いない。と歴史学者は推理するのでしょう。
しかしその推理は当時の実情とツジツマが合うでしょうか。


『史記』鄭世家によれば、鄭の開祖、桓公は周の宣王の弟です。宣王二十二年(BC806)鄭(陝西省鄭県)に封ぜられました。
 桓公の三十三年(BC774)当時の周王は宣王の子、幽王の代となっていましたが、鄭桓公は幽王の司徒に任ぜられました。司徒とは六卿の一、ということですから。いわば大臣に抜擢されたわけです。

その三年後(BC771年)幽王は犬戎に襲われて殺されますが、鄭桓公も幽王のお供をしていて殺されたのです。
 桓公は立派な人物だったのでしょう。『鄭世家』に「百姓皆、之ヲ便愛ス」とありますから、国人にも慕われていたのしょう。ですから桓公が殺された後は、国人は一致して、その子を立てて武公としました。
「犬戎、幽王ヲ驪山ノ下ニ殺シ、并セテ桓公ヲ殺ス。鄭人共ニ其ノ子掘突ヲ立ツ。是ヲ武公ト為ス」と『鄭世家』にあります。

 しかし前節で見たように、平王は東遷して洛邑に都を定めましたから。取り残されることを恐れた鄭人は、桓公の遺児、武公を擁して命からがら平王を追って行った、のが実情でしょう。とうてい周王室東遷の面倒を見る國力など、あるわけが無かったのです。

 ところが『史記』「鄭世家」には、鄭が西周王室の滅亡を予想して、それに二年先行して東に移遷していた。というはなはだ奇妙な話が出てきます。

 「鄭桓公友ハ、周演、ノ少子ニシテ、宣王ノ庶弟也。宣王立チテ二十二年、友、初メテ鄭ニ封ゼラル。封ゼラレテ三十三歳、百姓皆之ヲ便愛ス。幽王、以テ司徒ト為ス。周ノ民ヲ和集ス。周ノ民皆説ブ。河洛ノ間ノ人之ヲ便思ス。司徒ト為リテ一歳、幽王、褒后ノ故ヲ以テ、王室ノ治、邪多シ、諸侯或ハ之ニ畔ク。」
 「是ニ於テ桓公、太史伯ニ問イテ曰ク。王室、故多シ、予安クニ死ヲ逃レンカ。太史伯對エテ曰ク。獨ダRノ東土・河・濟ノ南ノミ居ル可シ。公曰ク、何ヲ以テカ。對エテ曰ク。地、カク・カイ、ニ近シ。カク・カイノ君ハ貪リテ利ヲ好ミ、百姓附カズ。今公、司徒ト為リ、民皆公ヲ愛ス。公、モシ請イテ之ヲ居ラバ、カク・カイノ君、公ノ方ニ事ヲ用ウルヲ見、軽ク公ニ地ヲ分タン。公モシ之ニ居ラバ、カク・カイノ民ハ皆公ノ民也。」
 「公曰ク、吾、南シテ江上ニ之カント欲ス。如何。對エテ曰ク、昔祝融、高辛氏ノ火正ト為リ、其ノ功ハ大ナリ。而シテ其ノ周ニ於ケル、未ダ興ル者有ラズ。楚ハ其ノ後也。周衰エバ、楚ハ必ズ興ラン。興ラバ、鄭ノ利ニ非ザル也。」
 「公曰ク、吾、西方ニ居ラント欲ス、如何。對エテ曰ク、其ノ民ハ貪リテ利ヲ好ム。久シク居リ難シ。」
 「公曰ク、周衰エバ、何レノ国カ興ルゾ。對エテ曰ク、齊・秦・晉・楚カ。夫レ齊ハ姜姓、伯夷ノ後ナリ。伯夷ハ堯ヲ佐ケ、禮ヲ典レリ。秦ハ贏姓ニシテ伯翳ノ後也。伯翳ハ舜ヲ佐ケ百物ヲ懐柔セリ。及ビ楚ノ先ハ、皆嘗テ天下ニ功有リ。而シテ周武王、紂ニ克チ、後、成王、叔虞ヲ唐ニ封ズ。其ノ地ハ阻険ナリ。此ノ有徳ヲ以テ、周ノ衰エルト竝ブ。亦必ズ興ラン。桓公曰ク、善、ト。」
 「是ニ於テ卒ニ王ニ言イ、東シテ其ノ民ヲR東ニ徙ス。而シテカク・カイ果シテ十邑ヲ献ズ。竟ニ之ニ國ス。二歳ニシテ、犬戎、幽王ヲ驪山ノ下ニ殺シ、并セテ桓公ヲ殺ス。鄭人、共ニ其ノ子掘突ヲ立ツ。是ヲ武公ト為ス。」

 以上の要点を整理しておきますと、
 

BC806年 桓公は鄭(現陝西省鄭県)に封ぜられる。
BC774年 六卿の一である司徒に任ぜられる。すなわち中央政府の大臣に抜擢されたのです
BC773年 司徒となって一年後、周王室の滅亡を予感したのでしょう。「巻き添えをくって死ぬのを避けるには、どこへ逃げればよいか」と太史伯に問う
太史伯は未来の全中国の情勢を的確に予想し、桓公に方針を教える。
その教えに従って、桓公は司徒という重職をほっぽりだして、国人を引き連れて新鄭(現河南省新鄭県)へ遷り、新しい国づくりにとりかかる。
BC771年 周の都から、はるかに遠い河南省で国づくりのまっ最中であったろうに。幽王が犬戎に殺されたとき、共に殺される。

 という、実際にはあるわけのない話が伝えられています。
 ずいぶん奇妙な話で、瀧川亀太郎博士などは、太史公(司馬遷)の誤りではないか、とされています。
 しかし、『国語』「鄭語」にも、同様の趣旨でさらに詳しい記事があります。おそらく司馬遷は、この部分は『国語』「鄭語」を参考にしたのでしょう。司馬遷が誤ったのは、すなわち『国語』「鄭語」を信じたことです。

また『春秋左氏伝』昭公十六年(BC526)の伝文には「(鄭の)子産對エテ曰ク。昔、我ガ先君桓公ト商人ト、皆周自リ出ヅ。庸次比グウ、シテ以テ此ノ地ヲ艾殺シ、之ガ蓬・蒿・藜・テウ、ヲ斬リテ、共ニ之ニ處リ、世盟誓有リテ、以テ相信ズ。云々」とあります。
 すなわち鄭国は、武公のときに移ってきたはずなのに、その父の桓公のときに、国人たちと共に、西周から河南に遷ってきた。と春秋時代後期には伝承していたのです。奇妙なのは司馬遷や『国語』「鄭語」からではなく、それに先立つ鄭の伝承がすでに奇妙です。


        『国  語』    鄭 語


 『国語』「鄭語」は、たいへん奇妙な記録です。
 西周王朝滅亡に数年先だって、鄭の桓公が周の史伯に助言を求めました。「王室、故多ク、余及バンコトヲ懼ル。其レ何所カ以テ死ヲ逃ル可キ」
 それに対する史伯の答えが、この『鄭語』という構成になっています。


「史伯対エテ曰ク『王室将ニ卑シカラントシ、戎狄必ズ昌ンナラン、セマル可カラズ。成周ニ当ル者ハ、南ニ荊蛮・申・呂・應・トウ・陳・蔡・隨・唐有リ。北ニ衛・燕・狄・鮮虞・ロ・洛・泉・徐・蒲有リ。西ニ虞・カク・晉・隗・霍・揚・魏・ゼイ、有リ。東ニ齊・魯・曹・宋・滕・薛・鄒・キョ、有リ。是レ王ノ支子母弟甥舅ニ非ザレバ則チ皆蛮荊戎狄ノ人ナリ。
親ニ非ザレバ則チ頑ニシテ入ル可カラズ。』 『其レ濟洛河潁ノ間カ。是レ其ノ子男ノ国ハカク・カイヲ大ト為ス。カク叔ハ勢ヲ恃ミ、カイ仲ハ險ヲ恃ミテ、是レ皆驕侈怠慢ノ心有リテ、之ニ加ウルニ貪冒ヲ以テス。君若シ周ノ難ノ故ヲ以テ、孥ト賄ヲ寄セバ、敢エテ許サズンバアラズ。周乱レテ弊エ、是レ驕リテ貪ラバ、必ズ將ニ君ニ背カントス。
君若シ成周ノ衆ヲ以テ、辞ヲ奉ジテ罪ヲ伐タバ、エン・弊・補・丹・依・ジュウ・歴・華ハ、君ノ土ナリ。若シ華ヲ前ニシ河ヲ後ニシ、洛ヲ右ニシ濟ヲ左ニシ、フカイ、ニ主トシテシン・イニ食イ、典刑ヲ修メテ以テ之ヲ守ラバ、唯是レ以テ少シク固カル可シ』ト」

 濟水と洛水、黄河と潁水の間が、鄭が移遷するに望ましい土地だ、と史伯が教えた。というのです。
 事実、春秋初期に鄭が領土を拡張したのは、この地域です。

 しかし史伯が、いかに先見の明がある人物であったとしても。神様でない限り、西周王朝滅亡以前に、このような予想をできるわけがありません。
『国語』は戦国時代の初期に左丘明が著したもの、とされています。
この『鄭語』の部分を書くにあたって、参考にした原資料は、おそらく鄭の史官が書いたもの、であろうと思われますが。なかには周室東遷より百年ほど後でなければ、分からないこともありますから、原資料は周王室東遷より約百年ほど後の知識を、もとに記録されたものでしょう。
 
しかしその予想の大部分は、春秋の歴史として判明しているもの、と合っていますから。この『鄭語』から春秋時代初期の鄭国の行動を、まず正確に推測できます。

例えば、『春秋左氏伝』隠公元年の伝文に、
 「初メ鄭武公、申ニ娶ル、武姜ト曰ウ。荘公及ビ共叔段ヲ生ム。荘公、寤生シテ姜氏ヲ驚カス。故ニ名ヅケテ寤生と曰イ、遂ニ之ヲ悪ミ、共叔段ヲ愛シ、之ヲ立テント欲シテ、シバシバ武公ニ請ウモ、公許サズ。荘公、位ニ即クニ及ビ、之ガ為ニ制ヲ請ウ。公曰ク、『制ハ巖邑ナリ。カク叔、焉ニ死ス。他ノ邑ナラバ、唯命ノママナリ』ト。京ヲ請ウ。之ニ居ラシム」とあります。
 
鄭荘公が位に就いた年(BC743年)には、すでに「制」は鄭の領土に含まれていたのですが、ここが旧カク国だったわけです。父の鄭武公の時代にカク国を滅ぼして我が領土にしていたのです。

エン・弊・補・丹・依・ジュウ・歴・華というような土地は、どこにあったかも、よく分からないようですが。鄭武公の時代にこれらの弱小国を併合して、「鄭國」は春秋初期の大国となったに違いありません。
 春秋時代中期から戦国時代へかけての大国からみれば、鄭も所詮、小国に過ぎないのですが。春秋初期の状況のなかでは、鄭は全中国のなかでも屈指の大国でありました。
 西周王朝末期の宣王の時代に、鄭の桓公が始めて領土を頂戴して、封ぜられた陝西の鄭国に比べれば、領土も人口もおそらく十倍以上に大きくなっていたでしょう。

「史伯の予言」などの、奇妙な物語を創作した目的も。その後の歴史と照らして見れば、推測できます。


前に見ましたように、平王は東遷して洛邑に都を定めましたから。取り残されることを恐れた鄭人は、桓公の遺児、武公を擁して命からがら平王を追って行った、のが実情でしょう。
 当時、中原すなわち河南省は、すでに農業先進地で人口も多く。農耕に適した土地には、西周初期以来の古国が住み着き、入植に適した土地は、得難かったでしょう。
 東周王室の世話で、河南省新鄭県の土地を頂いたのでしょう。しかしこの地は、前に述べたように「庸次比グウ、シテ以テ此ノ地ヲ艾殺シ、之ガ蓬・蒿・藜・テウ、ヲ斬リテ、共ニ之ニ處ル」という状態です。
土地は石ころまじりの荒れ地で、生えている植物は「よもぎ」や「あかざ」のたぐいでした。五穀を蒔くには、先ず石ころを取り除くことから始めなければならなかったのです。最初の両三年は農作物の種を蒔いても、収穫も望めなかったでしょう。引き連れて来た国人達も餓死寸前となりました。当時の東周王朝の実力者は、申侯でありましたから、申侯の口利きで、それらの国人の多くをカク揀Jイの二国に預かってもらう事にしました。

 しかし全員預かってもらうわけに行きません。新鄭県で荒れ地を開墾しなければなりませんから、その労働力は残しておかなければなりません。それらの人々の食料も不足しているわけですから、陝西から遷ってくるときに、持ってきた財宝も食料にかえました。
 そのうちに他の東遷してきた貴族達も、同様に悩みを抱えていることに気付いた鄭は、それら貴族達の財宝処分の斡旋もしたのです。
農業の収穫が得られないうちは、商業で生き延びたのです。
 こうして商業の有利さに気付いた鄭は、商業の保護育成に力を入れました。前に引用した鄭の子産の言は、晉の韓子に対する返答ですが、子産は言葉をつくして商人の利益をかばっています。

 子産対ヘテ曰ク「昔、我ガ先君桓公ト商人ト、皆周自リ出ヅ。庸次比グウ、シテ以テ此ノ地ヲ艾殺シ、之ガ蓬・蒿・藜・テウ、ヲ斬リテ、共ニ之ニ處リ、世盟誓有リテ、以テ相信ズ。曰ク『爾、我ニ叛ク無カレ。我、強イテ賈ウコト無ク。コイ奪ウコト或ルコト毋カラン。爾ニ利市宝賄有ルモ、我、與リ知ルコト勿カラン』ト。此ノ質誓ヲ恃ミテ、故ニ能ク相保チテ、以テ今ニ至ル。今、吾子、好ヲ以テ来リ辱クシテ、敝邑ニ『商人ヨリ強奪セヨ』ト謂ハバ、是レ敝邑ニ、盟誓ニ背クコトヲ教ウル也。云々」

 この子産の言からも、東遷時の鄭国が商活動を積極的に保護し、利用したことが推測できるのです。
鄭の商人は何を商っていたか、と見ますと。この『春秋左氏伝』昭公十六年の子産の言葉には『玉』とか『環』が出てきます。
すなわち貴金属や宝石を商っていたわけです。
 『詩経』大雅、瞻ギョウ、には「如賈三倍、君子是識」(あきないの三倍なるが如き、君子は是れ識る)とあります。当時の商売は荒稼ぎできたのです。鄭は商人を保護して、荒稼ぎをさせる裏で、上納金を吸い上げたに違いありません。
鄭武公は、ちょうど敗戦後のドサクサに、財産をつくった闇商人のような才覚があったのでしょう。
 周王室に従って東遷してきた貴族達が、愚痴ばかりこぼしているなかで、武公は一人、機敏に立ち回ったのです。

 しかし武公が最大の運をつかんだのは、東遷して十年後、東周王朝の最大実力者、申侯の姫君を夫人に迎えることが出来たことであります。(『史記』鄭世家「武公十年、娶申侯女為夫人。曰武姜」)
夫人の姉は、平王の母である申后です。すなわち鄭武公は、老齢の申侯が亡くなれば、その後継者になれるという位置についたのです。

 鄭武公は、申侯のお眼鏡にかなったのです。
 その原因の一は、武侯の父、桓公がすでに申侯の信用を得ていたからです。
『史記』鄭世家に「(鄭桓公三十三年)幽王、以テ司徒ト為ス。周ノ民ヲ和集ス。周ノ民皆説ブ。河洛ノ間ノ人、之ヲ便思ス」とあります。
 「河洛ノ間」とは、黄河と洛水の間、のちの洛陽、当時の洛邑です。その地は前節で述べているように、申侯の本国があった、と考えられますから、「河洛ノ間ノ人」とは申侯であるとして間違いないでしょう。
 「便思ス」とは有能と思われていたのでしょう。

 申侯は鄭桓公の有能さや、誠実な人柄を高く買っていたのしょう。しかもその数年後、幽王が犬戎に襲われたとき、鄭桓公は幽王に殉じて死にました。忠節の士だと強い感銘を受けたでしょう。鄭武公は、その忠節の士である桓公の遺児です。東遷してきたときから、申侯は武公に目をかけ可愛がっていたのでしょう。

 当時、申侯は老境に入っていました。彼の死後、愛孫平王を補佐してくれる人物をさがしていたのです。それは有能であるうえに、何よりも忠誠心あつい人物でなければなりません。
 鄭武公は、幽王に殉死した桓公の子だ。忠誠心は太鼓判を押してもよい、と考えたのでしょう。
 申侯は、武公を自分の末娘の婿とした上で「王ノ卿士」に登用しました。「王ノ卿士」とは六卿の長と云いますから、現代での総理大臣であります。
西周時代の「王ノ卿士」とは、どのような権限があったか、よく分かりませんが。春秋初期の、「鄭の武公・荘公父子」は周王室の軍事力も支配する権限を持っていました。
 武侯は義父申侯が生きている間は、猫をかぶっていたのでしょうが、その後本性をあらわします。
 彼はカク・カイ、二国を奪い、さらにエン・弊・補・丹・依・ジュウ・歴・華の八国を奪ったのです。もちろん当時の鄭国に、そのような兵力はありませんから、狡猾な武公は「成周ノ衆」すなわち東周王朝の軍隊を使ったのです。
 以上のところを、もう少し詳しく見てみよう。


 義父の申侯が死ぬと、「カク・カイの二国が、鄭の国人を奪って返さない」と因縁をつけた。
 カク・カイ、二国は「今頃、なにを言うか、そちらの強いての頼みで、鄭人を養ってきたのではないか」というような抗弁をしたのでしょう。
 それに対して「驕侈怠慢の心有りて、之に加うるに貪冒を以てす」とか「周乱れて弊え、是れ驕りて貪り、王に背かんとす」というような大義名分をかかげて、『鄭語』に「君若シ成周ノ衆ヲ以テ、辞ヲ奉ジテ罪ヲ伐タバ」と云うのですから、周王室の軍隊を使って伐ったわけです。
 
 これが仮に鄭国の軍隊のみで伐ったのであれば、カク国やカイ国の同盟国は黙っていなかったでしょう。
「けしからん」とばかりに、救援軍がかけつけたに違いありません。しかし相手が周王室の軍隊となりますと、王様には敵対できない、ということで同盟国にも見離されました。
 「カク仲ハ険ヲ恃ミテ」とか「制ハ巖邑ナリ」といいますから、カク、もカイも堅固な城を持っていたのでしょうが、城内にいた鄭の国人の内応があったのでしょう。
 「カイ叔、焉ニ死ス」というから、カク叔もカイ仲も殺されたのでしょう。すなわち『鄭語』にいう「君若シ成周ノ衆ヲ以テ、辞ヲ奉ジテ罪ヲ伐タバ、克タザル無シ」ということになったわけでしょう。

 当時の周王室には「溥天ノ下、王土ニ非ザル莫ク。率土ノ浜、王臣ニ非ザル莫シ。」という思想がありました。この有名な文句は『詩経』小雅、北山、にある言葉ですが。北山は幽王のときの作、と伝えられています。
 すなわち鄭武公は、この思想を曲げて悪用したのです。主を失ったカクやカイの土地は、もともと王土であるから王室に没収する。主を失ったカクやカイの人民は、もともと王臣だったから周王室に没収する。そして「王ノ卿士」であるオレが管理する。ということだったのでしょう。

 更に、エン・弊・補・丹・依・ジュウ・歴・華の小国群にも圧力をかけました。この小国らも、あの堅固なカクやカイも守り切れなかったのだから。殺されて没収されるより、命のあるうちに差し上げたほうが利口だ、ということで周王室に献上した。
 これもオレが管理する、と鄭は着服してしまった。

 それでも鄭の武公は、口先では殊勝に、「これは王様のおためを思ってやっているのだ。オレは必ず周王室を昔の強盛な時代に返して、義父申侯の遺託に応えるのだ」というようなことを、言っていたのでしょう。
 夫人らは、武公が「王ノ卿士」を辞めるときには、旧カクや旧カイの領土は、周王室に返還するものと思っていました。だから長男の寤生が「それらの土地は、鄭が身体をはって獲得した領土だ。末代まで鄭の領土で、周王室に返還する必要はない」という考えを持っているのを知ったときには、びっくり仰天したに違いありません。
 「寤生は恐ろしい子です。これに跡目を継がすのは危険です。次男の段を次の鄭公にしましょう」と武公に請いましたが、武公は許しませんでした。寤生の考えは、武公の教育の賜物であったからであります。

 これがすなわち『春秋左氏伝』隠公元年の伝文にある「(武姜)荘公及ビ共叔段ヲ生ム。荘公、寤生シテ姜氏ヲ驚カス。故ニ名ヅケテ寤生ト曰イ、遂ニ之ヲ悪ミ、共叔段ヲ愛シ、之ヲ立テント欲シ、シバシバ武公ニ請ウモ、公許サズ」の原事実でしょう。

 逆子であったから寤生と名づけた。というのは後起の説でしょう。寤生の言動を見てこれは大変な「逆臣逆子」になると怖れた武姜が、その廃嫡を強く主張したに違いありません。
 彼女も亡くなった父申侯と同様に、夫の鄭武公を忠誠心のあつい人である、と信じきっていましたから、不忠の息子、寤生を廃嫡しない武公を理解できなかったでしょう。

 しかし武公も寤生と同様に、周王室への忠誠心などカケラも持たなかったのです。彼は亡父、鄭の桓公が、周王への忠誠心をなまじっか持っていたために、幽王のお供をして犬戎に虐殺されるという災難にあいました。またそのお蔭で、息子の武公は領地を手放し、その日の糧にも苦しむという筆舌につくせぬ苦労を味わった、と考えていたのでしょう。その埋め合わせにも、周王室をとことん利用してやろう、としたのです。周王朝下の諸侯で、他国を強奪して私領を増やしたのは、鄭の武公が最初でありましょう。
    
 西周王朝の時代には、西周王朝傘下の国が、武力を行使して隣国を侵略し、領土を奪うような事があれば。いかに西周王朝が衰えていた時代でも、それを許すことは無かったでしょう。
 指をくわえて、それを見過ごすようでは、威信を失うどころか中央政府としての実体もなくすわけで、やがて西周王朝の崩壊につながるのは、火を見るより明らかであったからです。

 すなわち周王朝傘下の国が、おなじ傘下の国に戦争を仕掛けて領土を奪い取る、という前代未聞の行為を始めたのが鄭の武公です。これは辺境での夷狄相手の苦しい戦いとは違って、「労少なくして実り多い」戦争であったでしょう。しかも狡猾な武公は、それを周王室の軍隊を使用して行ったのです。


もちろん当時の周王室の史官たちは、その無法な行いを苦々しく見ていたのでしょう。「王の卿士」である鄭公は、彼らの上司にあたるわけです。
また「王の卿士」は軍事力も掌握していましたから、鄭公に逆らうことは生命を失う恐れがありました。だから彼らは沈黙を守っていましたが、鄭公の無法ぶりには、許しがたい怒りを抱いていたでしょう。
『黄帝伝承原型』は、彼らがその怒りを込め、「鄭の武公・荘公父子」を『蚩尤』という名で断罪した記録と言えます。


       『国語・鄭語』創作の動機


『春秋左氏伝』隠公元年の伝文にある「鄭荘公とその母(武姜)との逸話」から、考えますと。荘公は母に対して強い反発と共に強い愛情を抱く、という複雑な感情をもっていました。

その逸話と『国語鄭語』の奇妙な記事とを考え合わせますと、
鄭の荘公の母(武姜)は、「申候」の娘です。鄭の武公に嫁ぐとき、父の申候から夫の武公を励まして、周の平王に忠節を尽くすように、こんこんと言い含められていたでしょう。
周王室へ忠義を尽くすために、夫の武公は「王の卿士」に登用されたのです。周王朝の最高の地位に抜擢されたのです。

常々、息子や家臣に「鄭国の今日の繁栄があるのは、祖父の申侯のお蔭です。お祖父様の申侯と周の平王の御恩を忘れては罰が当たりますよ」と言い聞かせていたのでしょう。
鄭の荘公は、それに反発して(母が亡くなった後に)「鄭の今日があるのは、母方の祖父である申侯のお蔭ではなく、父方の祖父『鄭の桓公』のお蔭だ。周の平王のお世話になったことも無い。『鄭』がお世話して周王室の東遷が成功したのだ」とサギをカラスと言いくるめていたのでしょう。

周室東遷の直前に、犬戎に殺されていた『鄭の桓公』が、周王室の東遷のお世話をした、というツジツマを合わせるためには、周王室の東遷以前に、『鄭の桓公』が東遷していた。というシナリオにしなければならず。
さらに、周王室の東遷以前に、『鄭の桓公』が東遷していた、というシナリオにするためには、周王朝滅亡を予想していた。というシナリオを書かねばならず。「周の太史」の予言を頂いた。という筋書きまでは、「鄭の荘公」が創作していたと思われます。

その後、そのサギをカラスと言いくるめた荘公の話を、真実と信じ込んでいた鄭の史官は「周の太史」の予言はいかに正確であったか、を強調するために、周室東遷後百年ばかり後の知識をもって、太史の予言を、まことしやかに書き加えたのでしょう。

そのために、反って「鄭荘公」の虚偽を証明したわけです。しゃべりすぎて、俗諺にいう「問うに落ちず、語るに落ちる」という結果になったわけです。
しかしそれと共に『鄭語』は、当時の鄭国の真実の行動や、東王室初期の実情を知ることができるという、はなはだ貴重な資料となっているわけです。


 前の申国と秦国(2)の末尾でも述べましたが。 『史記』秦本紀には「(秦文公)十六年、文公、兵ヲ以テ戎ヲ伐ツ。戎敗走ス。是ニ於テ文公、遂ニ周ノ餘民ヲ収メテ之ヲ有チ、地、岐ニ至ル。岐ヨリ以東ハ、之ヲ周ニ献ズ」とあります。
          
ここのところを再掲しておきますと。

 秦の文公十六年とはBC750年、周室東遷より二十年の後です。この年になって秦はようやく陝西の平野部から西戎を追い払い、周の遺民を収容したのです。先代の襄公の死亡などがあり、相当遅れましたが平王の命令にこたえたのです。「岐ヨリ以東ハ周ニ献ズ」すなわち旧の西周王朝直轄領は、すべて取り返して周王室におかえしした。

 これはツジツマの合う話です。文公の父、故襄公が「而シテ秦襄公、兵ヲ将イテ周ヲ救イ、戦甚ダ力メテ功有リ。周、犬戎ノ難ヲ避ケ、東ノカタR邑ニ徙ル。襄公、兵ヲ以テ周平王ヲ送ル」
 「平王、襄公ヲ封ジテ諸侯ト為シ、之ニ岐ヨリ以西ノ地ヲ賜イ、曰ク、戎、無道ニシテ我ガ岐豊ノ地ヲ侵シ奪ウ。秦、能ク戎ヲ攻メ逐エ、即チ其ノ地ヲ有セ、ト。與ニ誓イテ之ヲ封爵ス」

 と言うのですから。平王から、犬戎を遂い払う命令をうけ、それを誓って諸侯に取立てられたのです。襄公が急死した為に遅れましたが、その子の文公が、父に代わって誓いを果たしたのです。

 ツジツマが合わないのは、そのとき周王室が陝西へ帰らなかったことです。
 陝西には洛邑とは比較にならないほど広大な農耕地があり、それを耕作していた周の農民は西戎の下で苦しんでいたのです。それら多くの周人は秦の文公の手で解放されたのです。西戎が駆逐され安全が確保された今、一日も早く陝西に戻り遺民を呼び集め、荒廃した農地を整備し、周王室の建て直しをはからねばならなかった、のではありませんか。


 ところが不思議なことに、そのとき周王室は陝西へ帰らなかったのです。

 前章にも引用しましたが、『孟子』や『礼記』王制に、
 「天子ノ制、地方千里、公侯皆方百里、伯七十里、子男五十里、凡四等。五十里ニ能ハズハ天子ニ達セズ、諸侯ニ附ク、附庸ト曰ウ」という記事があります。

 これからすると、周王室の直轄領は、公侯の領地の百倍の面積があった、ということになります。
 このような定規で計ったようなものでは、なかったでしょうし。また西周王朝の最盛期と衰退期では、相当な変動もあったと思いますが。西周王室の直轄領は、諸侯の領土の数十倍はあったでしょう。それが西周王朝の力の源泉、いわば基礎国力であったわけです。それがあったから西周王朝時代を通じて、王として天下に君臨できました。威信を保てたのです。

 それに引きかえ洛邑の地は諸侯並みです。この地に居る限り、王者の繁栄はとりもどせません。
陝西に領土領民を残して、平王のお供をして河南省に移ってきた諸侯も、落ちぶれて貧に泣いているのです。
また平王以下、東遷してきた総ての人々はそれぞれの先祖の霊廟・墳墓を陝西の地に残しているのです。その墳墓の地から西戎を一掃できたこの時点に、陝西へ帰ることを希望しない者は、一人として居ないはずでしょう。
すべての人が首を長くしてこの日を待っていたはずなのであります。

 ところがただ一人、陝西へ帰ることにより多大の不利益を被る者がいました、すなわち「鄭の武公」です。
周王室が西へ帰れば、武公が河南で手に入れた広大な領土を手放し、もとの陝西鄭県の吹けば飛ぶような小国の領主に、戻らなければならないのです。
 河南で手に入れた土地が、周王から封ぜられた正当な領土であれば、周王室が陝西へ帰ることになっても、鄭は河南の新領土を維持して問題はなかったでしょう。
しかしこれらの領土は周王の卿士という権力をかさに、王の軍隊を悪用して強奪した土地です。
 周王室が西へ帰り、鄭武公が王の卿士の地位を去ったとたん。土地を奪われ国君を殺されて怨んでいるカクやカイの一族、その他の小国の遺民たちに、鄭公は殺され、土地は取り返されるに違いありません。
 鄭武公には、周王室の陝西復帰を、どうしても阻止しなければならない個人的な理由があったのです。そして、自分の利益のためには、天下国家の利益を踏みにじって平気な人物でありました。

 以上の要点をまとめておきますと、
1)、『史記』秦本紀に「(文公十六年)岐ヨリ以東ハ、之ヲ周ニ献ズ」とあるにもかかわらず。その後の歴史が示すように、この西周王朝直轄領は、周王室に戻っていない。
2)、周王室の陝西への復帰は、鄭武公個人には、大変な不利益となる。
3)、鄭武公は当時、東周王朝の卿士(総理大臣)の地位にあり。無気力・無能の平王を擁して、国政をほしいままにしていた。
4)、当時の史実から見れば、鄭武公・荘公の父子は、「王ノ卿士」の地位を利用して、徹底的に私利を図っている。

以上を総合して考えると当時の事情は一目瞭然です。すなわち秦文公の「岐ヨリ以東ヲ周ニ献ズ」という申出を、鄭武公が握り潰したに違いありません。これが周王室が洛邑に定着してしまい。天下の支配権を取り戻すことが、できなかった最大の原因でしょう。


 それでは陝西の旧西周王朝直轄領、かつて西周王朝時代には全中国最大の穀倉であった土地の支配権は、どのような推移を見たのでしょうか。
 BC770年に周王室が東遷した後は、この地方の大部分は西戎・犬戎の支配するところとなりました。
これは周人の力が西戎より弱かったからではありません。周人が結束すれば、西戎をこの地より追い出すことは困難でなかったでしょう。しかし廃嫡されていた太子宜臼(平王)には、周人のどれが味方で、どれが敵になるか見通せなかったのです。

 それで「河洛の地」へ避難しました。この地は「申」と「甫」があったのでしょう。この「河洛の地」から「平王に忠誠を誓うものは来たれ」と呼びかけたので、陝西から多くの諸侯が駆けつけました。この時期には、彼らは出来るだけ早い機会に、陝西へ帰る方針であったに違いありません。中原地方で兵を募り、直ちに陝西奪還に乗り出すべきであった、と思えますが。種々の事情があったのでしょう、延び延びになっているうちに、ついには鄭武公の食い物にされてしまうのです。


     鄭武公から鄭荘公へ


さて鄭の武公はその二十七年に死に、その後を荘公が継ぎました。
荘公は父の後を襲って「王の卿士」となります。

『春秋左氏伝』隠公三年の伝文に「鄭ノ武公・荘公、平王ノ卿士ト為ル。王、カク、ニ貳アリ。鄭伯、王ヲ怨ム。王曰ク『之レ無シ』ト。故ニ周鄭、交々質シ、王子狐、鄭ニ質ト為リ、鄭ノ公子忽、周ニ質ト為ル」とあります。

鄭は、武公・荘公と父子二代つづけて卿士の職を握ったのです。
当時、有力な官職の世襲は弊害多い、と知られていたのでしょう。これより七十年ばかり後のことですが、BC651年に齊の桓公が主宰して、葵丘に諸侯を集めて会盟しました。そのときの盟約が『孟子』告子下にありますが、そのなかに「士ハ官ヲ世々ニスルコト無カレ」(士無世官)というのがあります。
 祿の世襲はよいが、官職の世襲は、権力を私物化して弊害が大きいのです。この盟約に言う官とは、卿大夫ていどのものでしょうが、「王ノ卿士」は、官のなかでも最高の地位、最大の権力者でありましたから、当然世襲はつつしまねばならなかったのです。
 しかし鄭公にとっては、このポストは無一物から現在の豊かな大国に化けることが出来た手品の種であります。いわば金の卵を生む鵞鳥のようなものですから、絶対に他人には渡したくなかった。だから慎むどころか、強引に二代続けて卿士のポストを取ったのです。

 だが鄭公の権力私物化は、人々の目にあまりました。平王も気がついて何とかしなければならない、と考えたのです。「王、カク、ニ貳アリ」といいますから、「王ノ卿士」をカク公と二名にして、権力の私物化に歯止めをかけようとしたのです。

 「鄭伯、王ヲ怨ム。王曰ク『之レ無シ』ト」というのですから、平王は鄭荘公の脅しに屈したわけです。
 「故ニ周・鄭交質シ、王子狐、鄭ニ質ト為リ、鄭ノ公子忽、周ニ質ト為ル」

主人が番頭に脅されて、番頭を二名に増員しないと約束させられたうえに、主人と番頭がその保証に人質を交換した、というのですからヒドイ話です。(「王子狐」とは後の周公黒肩であり。「鄭公子忽」とは後の鄭昭公です)

さて、前章で見たような歴史の背景のなかで、周平王の末期から『春秋左氏伝』が始まるわけですが、そのお蔭で中国史も欠史時代を抜け出して、かなり詳しく判るようになります。
 さて『春秋左氏伝』隠公三年の経文に「三月庚戌、天王崩ズ」とあります。
 周の平王が崩くなったのです。平王が崩くなって、太子洩父ははやく死んでいたので、孫の林が立って桓王となりました。
 桓王は平王と違って、なかなか気力のある傑物でした。晩年の平王が果たせなかった遺志を継いで、カク公を卿士に登用しようとします。

 「王崩ジテ周人、将ニカク公ニ政ヲアタエントス。四月、鄭ノ祭足、師ヲ帥イテ温ノ麥ヲ取ル。秋、又成周ノ禾ヲ取ル。周鄭、交々悪ム」とあります。
 
 口で脅して利かなければ、武力で脅してやれ、ということなのでしょう。鄭の部将の祭足が、軍隊を出動させて四月に王の領地である温の麥を奪い、秋には洛邑の稲を奪った、というのですから下克上もここに極まれりです。
 このときに桓王が反撃していない点から推測すると、王師、すなわち王直属の軍隊は「王ノ卿士」である鄭伯に握られていて、桓王の命令では動かない状態だったのでしょう。

 続いて経文に「秋、武氏ノ子、来リテ賻ヲ求ム」とあり伝文に「武氏ノ子、来リテ賻ヲ求ムトハ、王未ダ葬ラザレバ也」とあります。
 
温の麦や、洛邑の稲を奪われた周王は、困窮して先王の葬式を出すこともできず、使者を諸国に出して、費用を出してくれと求めなければならない始末でした。

 更に同年の経文に「冬、十有二月、齊侯・鄭伯、石門ニ盟ウ」伝文に「冬、齊・鄭、石門ニ盟ウハ盧ノ盟ヲ尋ムル也」とあります。

 盧之盟とはいつの事か、記録がないから判りませんが。おそらくこの年より数年もしくは十数年前に、盧の地で齊と鄭が同盟を結んでいたのでしょう。この年、鄭伯は、周王領の農作物を武力を行使して奪ったのち、齊との同盟を再強化しておく必要があると考え、わざわざ石門まで出向いたのです。(古註によれば、石門とは斉の地とあります。)
 鄭荘公は、慢心しすぎていたのでしょう。「秋、又成周ノ禾ヲ取」ったのは、あまりにも行き過ぎでありました。それまでの諸国は、鄭の悪辣な遣り口に泣かされてきましたが、「王ノ卿士」として、王の代理人だという大義名分には逆らえない、と御無理ごもっともで我慢してきたのです。
 しかし成周の稲を奪ったことで、鄭公の行動が常に王の代理としての行いである、と主張できないことがハッキリしました。とうとうシッポを出したのです。俄然、諸侯の鄭公に対する見方は、大きく変化してきました。鄭公は、しまったと思ったでしょう。だが取りかえしはきかなかったのです。


                   動乱時代の始まり  


      
 その翌年、『春秋左氏伝』隠公四年の経文
 「春、王ノ二月、戊申、衛ノ州吁、其ノ君完ヲ弑ス。夏、公、宋公ト清ニ遇ウ。宋公・陳侯・蔡人・衛人、鄭ヲ伐ツ。秋、キ、師ヲ帥イテ、宋公・陳侯・蔡人・衛人ニ會シテ鄭ヲ伐ツ。九月、衛人、州吁ヲ濮ニ殺ス」
 伝文に「四年、春、衛ノ州吁、桓公ヲ弑シテ立ツ。公、宋公ト會ヲ為シ、将ニ宿ノ盟ヲ尋メントス。未ダ期ニ及バザルニ、衛人來リテ乱ヲ告グ。夏、公、宋公ト清ニ遇ウ。宋ノ殤公ノ位ニ即クヤ、公子馮、出デテ鄭ニ奔レリ。鄭人、之ヲ納レント欲ス。衛ノ州吁ノ立ツニ及ビ、将ニ先君ノ怨ヲ鄭ニ脩メテ寵ヲ諸侯ニ求メ以テ其ノ民ヲ和セントシ、宋ニ告ゲシメテ曰ク、『君若シ鄭ヲ伐チ以テ君ノ害ヲ除カントナラバ、君、主ト為レ。敝邑、賦ヲ以テ陳・蔡ト與ニ從ハンコトハ、則チ衛國ノ願イナリ』ト。是ニ於テ陳・蔡、方ニ衛ニ睦シ、故ニ宋公・陳侯・蔡人・衛人、鄭ヲ伐チ、其ノ東門ヲ圍ミ、五日ニシテ還ル」
 「秋、諸侯復タ鄭ヲ伐ツ。宋公、來リテ師ヲ乞ハシム。公、之ヲ辞ス。羽父、師ヲ以テ之ニ會セント請ウ。公許サズ。固ク請ウテ行ク。故ニ書シテ『キ、師ヲ帥ウ』ト曰ウハ、之ヲ疾ミテ也。諸侯ノ師、鄭ノ徒兵ヲ敗リ、其ノ禾ヲ取リテ還ル」とあります。

 すなわち隠公四年(BC719年)二月の戊申の日、衛国の公子である州吁が、その兄の桓公を弑して、とってかわった。もちろん近隣諸国からは認めて貰えないし、自国の民心も得られない。
 そこで州吁は「今、中原で最も怨まれ憎まれている鄭を伐てば、オレの人気も上がるであろうし、諸侯も認めざるを得ないであろう。また自国の国人も心服するだろう」と考えたのです。州吁は 「兵ヲ阻ム」と評されていますから、軍事には自信を持っていたのでしょう。
 当時、申・甫(呂)が衰えた後の中原で、目ぼしい国は宋です。州吁は宋に、盟主になれと説いて、宋・陳・蔡・衛の連合軍をたちまち組織した。いかに鄭が中原諸国に怨まれていたかよく判ります。

 連合軍は夏に鄭を攻撃した。すなわち「東門ノ役」です。「其ノ東門ヲ圍ミ、五日ニシテ還ル」といいますから、攻めてはみたが落とすことは出来ず、大した戦果はなかったわけです。
 更に秋に再攻撃をかけた。このとき魯国にも参戦の要請があったが、魯公は断った。前後の事情から推測すると、魯公は鄭の子分のようになっていたのでしょう。だが公子の羽父は、どうしても参戦したい、と公の許可がないにもかかわらず軍を率いて行きました。

 羽父としては、「王ノ卿士」の職権を悪用して、不正を続けてきたうえに、周王室の農地を荒らすという無法な鄭を、懲らしめることこそ大義である、と考えたのでしょう。
「諸侯ノ師、鄭ノ徒兵ヲ敗リ、其ノ禾ヲ取リテ還ル」とは、その前年に鄭が「成周ノ禾ヲ取」ったあまりにも下克上の無法を、断じて許さないと行動で示したのです。

 だがその後、州吁は家臣の石シャクに謀殺されます。中心人物の州吁が死んだために、折角の連合組織は崩壊してしまいます。翌隠公五年の伝文に「鄭人、衛ノ牧ヲ侵シ、以テ東門ノ役ニ報ユ」とありますから。連合組織の崩壊に乗じて、鄭は各個撃破の反撃に出たのです。

 つづいて「衛人、燕ノ師ヲ以テ鄭ヲ伐ツ。鄭ノ祭足・原繁・洩駕、三軍ヲ以テ其ノ前ニ軍シ、曼伯ト子元トヲシテ潛ンデ其ノ後ニ軍セシム。燕人、鄭ノ三軍ヲ畏レテ、制人ヲ虞ラズ。六月、鄭ノ二公子、制人ヲ以テ、燕ノ師ヲ北制ニ敗ル」
 
 衛は州吁を殺してしまったために、こんどは宋以下の援けを求める人物がいない。仕方がないから燕の援軍をたのんだ。(この燕は後年の戦国の七雄の一となる燕とは別)
 「燕人、鄭ノ三軍ヲ畏レテ、制人ヲ虞ラズ」というから、鄭主力軍の陽動作戦に引っかかって、後ろから攻めてくる制人に気がつかなかったのです。「制」とは、前章で述べたように、カク叔の国があったところです。カク叔を殺した後、遺民達は鄭の私兵軍団のなかに編み入れられていたのでしょう。

 同じく経文九月の条に「チュウ人、鄭人、宋ヲ伐ツ。」とあり。伝文に「宋人、チュウ、ノ田ヲ取ル。チュウ人、鄭ニ告ゲテ曰ク『請ウ、君、憾ヲ宋ニ釋ケ。敝邑、道ヲ為ン』ト。鄭人、王師ヲ以テ之ニ會シ宋ヲ伐チ、其ノ郛ニ入リ、以テ東門ノ役ニ報ユ」とある。

 九月になると鄭は、チュウ人を道案内として、王師を以て宋の国都を攻撃し、その外城に攻め入り「東門ノ役」の仇をとった。すなわち「郛ニ入ルノ役」である。
 王師を以て、とあることから考えると、この時期になっても、周王室の軍隊は「王ノ卿士」である鄭莊公の命令で動いたのです。莊公は卿士の地位を、とことんまで利用したのです。

 十二月には、今度は宋が鄭を攻撃した。『春秋左氏伝』の経文に「冬十有二月辛巳、宋人、鄭ヲ伐チ、長葛ヲ圍ム」伝文に「宋人、鄭ヲ伐チ長葛ヲ圍ム。以テ郛ニ入ルノ役ニ報ユ也」とある。
鄭領の長葛を包囲したのです。

 翌隠公六年、経文「春、鄭人、來リ渝エテ平グ。」伝文「六年、春、鄭人來リ渝エテ平ラグトハ、更メテ平ラグ也。」
 古注には、隠公が公子のころ、狐壌の地で鄭の虜になったことがある。その怨みを解いて和睦したのである。というような説もありますが、これは隠公十一年の伝文から出た憶測でしょう。

一連の事件や、その後の状況から考えると、隠公四年に魯の公子羽父が隠公の反対を押し切って、宋・衛などの連合軍に参加して鄭を攻めた。それに対して鄭は怨んではいません、と言うことで、この六年に和睦したわけです。当時の鄭は、四面皆敵という状況であったから、少しでも敵国を少なくする必要があったのです。

 「五月庚申、鄭伯、陳ヲ侵シテ大イニ獲タリ」これも「東門ノ役」に対する報復です。
 経文「冬、宋人長葛ヲ取ル。」伝文「秋、宋人長葛ヲ取ル」経文と伝文に少し食い違いがあるが、昨年の十二月以来、包囲していた長葛が落ちた、ということ。

 伝文「冬、京師來リ飢エヲ告グ。公、之ガ為ニ糴ヲ宋・衛・齊・鄭ニ請ウ。禮也。鄭伯、周ニ如キ始メテ桓王ニ朝ス也。王、禮セズ。周桓公、王ニ言テ曰ク『我ガ周ノ東遷ハ晉・鄭ニ焉レ依ル。鄭ニ善クシ以テ來者ヲ勧ムルモ、猶オーラザルヲ懼ル。況ヤ禮セザザルヲヤ、鄭來ラザラン』ト」

 冬に京師から使いが来て、飢饉を告げた、というのです。魯公は、宋・衛・齊・鄭に食料援助を要請した。「禮也」とは、王に代わって要請することが禮法に叶っている、ということでしょう。
 しかし京師の食料不足は、その三年前から、「四月、鄭祭足、師ヲ帥イテ温ノ麥ヲ取ル。秋、又成周ノ禾ヲ取ル」というように、「王ノ卿士」である鄭が、周王室に対して食料攻めを行ってきた結果でしょう。だから、魯公から通知をうけた鄭は、我が作戦は成功せり、と意気揚々として周へ行ったわけです。
 
「鄭伯、周ニ如キ、始メテ桓王ニ朝セリ。王、禮セズ」

 「王ノ卿士」とは、現代での総理大臣です。本来は常に朝廷につめていなければならない仕事でしょう。それがこのとき始めて桓王に朝せり、というのですから。平王が崩くなってから、新王の補佐を怠り、三年間サボタ−ジュしていたわけです。その間、朝廷の機能は半ば麻痺の状態であったでしょう。
 当然に新王もそのような「王ノ卿士」を解職して、忠誠の人物を後任に据えようとしたに違いありません。それが出来なかったのは、鄭は武公・莊公と二代にわたって「王ノ卿士」の職を独占していたから。朝廷の内部を自分の息のかかった者でガッチリ固めていて、新王の歯が立たなかったのでしょう。
 隠公三年の「四月、鄭ノ祭足、師ヲ帥イテ温ノ麥ヲ取ル。秋、又成周ノ禾ヲ取ル」と考え合わすと、農民も怖れて農作業にも精出せなくなり、当然、不作が続き、この年、諸国に飢えを訴え救援を求めることに、なったのでしょう。

 鄭莊公は、これでオレの実力は新王にもよく判ったろう。これからオレに相談なしに事を運ぼう、というような気は起こさないだろう、と朝廷へ出ていった。しかし桓王は、そのような弱気な人物でなかった。「王、禮セズ」というから、鄭莊公を相手にしなかったわけです。

 「周桓公、王ニ言イテ曰ク、我ガ周ノ東遷ハ晉・鄭ニ焉レ依ル」

周の東遷は、前に見たように、申が私財をなげうって行った、としか考えられない事情で。鄭は、それにうまく取り入ったに過ぎないのだが。鄭莊公は、「オレの母方の祖父申侯と、父方の祖父鄭桓公が共にお世話して周王室の東遷を行ったのだ」というような宣伝をして、周桓公(周公黒肩)などはその宣伝に乗せられて、鄭莊公に心酔していたのでしょう。

 さて周桓公の言葉は続く、「鄭ニ善クシ以テ來者ヲ勧ムルモ、猶オーラザルヲ懼ル。況ヤ禮セザザルヲヤ、鄭來ラザラン」
と桓王に諌言した、と『春秋左氏伝』は伝えている。このような事を本当に言ったかどうか判らないが、この周桓公の行動を見ていると、鄭莊公に完全に抱き込まれていたようだ。

 その翌年、隠公七年の経文に「春、王ノ三月、叔姫、紀ニ歸グ」とありますが。この叔姫は、前巻でも述べたように、『記紀』神代巻における「玉依姫」です。
 さてこの年の伝文に「秋、宋、鄭ト平ラグ」「冬、陳、鄭ト平ラグ」とあります。

すなわち鄭伯は、王が折れてくる、と踏んでいたが。意外にも桓王が強硬な態度をかえないために、方針を変えたのです。宋や陳と和睦し、さらに陳の公女を鄭の公子忽の妻に迎えた。融和策をとったわけです。
それに対して、桓王は既定方針どおりに、カク公忌父を卿士に任命しました。すなわち鄭公が左卿士、カク公が右卿士の二卿士制をとったのです。故平王以来の宿願をようやく達したわけです。

 しかしこれは老獪な鄭莊公が、情勢不利と見て一歩後退したふりをしたに過ぎません。
 経文に「秋、七月庚午、宋公・齊侯・衛侯、瓦屋ニ盟ウ」伝文に「齊人、卒ニ宋ト衛トヲ鄭ニ平ラゲシム。秋、温ニ會シテ瓦屋ニ盟イ、以テ東門ノ役ヲ繹ク。禮也。八月、丙戌、鄭伯、齊人ヲ以テ王ニ朝す。禮也」とあります。

 当時の齊侯は、鄭莊公の子分のような間柄ですから、これは鄭莊公の意をうけて齊侯が、この和睦の仲介をつとめたに違いありません。

 翌、隠公九年の夏になると、伝文「宋公、王セズ。鄭伯、王ノ左卿士為リ。王命ヲ以テ之ヲ討ジ、宋ヲ伐ツ」「秋、鄭人、王命ヲ以テ來リ、宋ヲ伐ツコトヲ告グ。冬、公、齊侯ト防ニ會スルハ、宋ヲ伐ツコトヲ謀ル也」

 昨年の和睦には何かウラがある、と宋公は不信を抱いていたのでしょう。宋から洛邑へ朝見するには、鄭の勢力範囲を通過しなければなりません。さらに洛邑の王の軍隊は、当時鄭莊公の実質的な支配下にありました。のこのこ出て行けば、鄭伯に捕らえられ、あるいは暗殺される心配があったのでしょう。宋公は朝見しませんでした。
 それが怪しからん、王命違反だから左卿士である俺が征伐する、と鄭莊公は大義名分を振りかざしたわけです。

 これから考えると、王が二卿士制をとったのは、左卿士・右卿士の双方が互いに監視牽制しあうことにより不正を防止できる、と考えたのでしょうが、鄭莊公にウラをかかれたようです。

 「王命ヲ以テ之ヲ討ジ宋ヲ伐ツ。」

王命を出すのに、どのような手続きがあったか、はたして桓王の意思からでたか、というような事はまったく判りませんが。「王ノ卿士」の職にありながら、王領の農作物を奪い、三年間も出仕しなかった男が、一般諸侯である宋公が朝見に出て来ない、という理由で討伐する、というのですから、事情を知っている者には納得できない話であったでしょう。中原地方の諸侯には、鄭莊公について行く国は一国もありません。だから遠い山東地方の齊国と魯国に、軍隊を出せ、と命令が行ったわけです。

 翌隠公十年、経文、「春、王ノ二月、公、齊侯・鄭伯ニ中丘ニ會ス。夏、キ、師ヲ帥イ、齊人・鄭人ニ會シ宋ヲ伐ツ。六月壬戌、公、宋ノ師ヲ菅ニ敗ル。辛未、コウヲ取ル。辛巳、防ヲ取ル。秋、宋人・衛人、鄭ニ入ル。宋人・蔡人・衛人、戴ヲ伐ツ。鄭伯、伐チテ之ヲ取ル。冬、十月壬午、齊人・鄭人、セイ、ニ入ル」

 伝文「十年、春、王ノ正月、公、齊侯・鄭伯ニ中丘ニ會シ、癸丑、トウ、ニ盟イ、師ノ期ヲ為ス。夏、五月、羽父先ズ齊侯・鄭伯ニ會シテ宋ヲ伐ツ。六月戊申、公、齊侯・鄭伯ニ老桃ニ會ス。壬戌、公、宋ノ師ヲ菅ニ敗ル。庚午、鄭ノ師、コウ、ニ入ル。辛未、我ニ歸ル。庚辰、鄭ノ師、防ニ入ル。辛巳、我ニ歸ル。」君子謂ウ、『鄭ノ莊公、是ニ於テカ正シト謂ウ可シ。王命ヲ以テ不庭ヲ討チ、其ノ土ヲ貧ラズシテ以テ王ノ爵ヲ勞ウハ、正ノ禮也』ト」


 隠公十年(BC713年)の二月、中丘の地で、鄭伯・齊侯・魯公、の三者が会談し、出陣の約束をした。六月には、老桃の地に三国の軍が集結して、宋に攻め入ったのです。
さて、庚午の日に鄭の軍隊が「コウ」邑に入る。その翌日、辛未の日にその「コウ」邑を、我が魯国へ贈った。庚辰の日に鄭の軍隊が「防」邑に入り、その翌日、辛巳の日にその「防」邑を魯に贈った。

これを、ある君子が「鄭ノ莊公、是ニ於テカ正シト謂ウ可シ。王命ヲ以テ不庭ヲ討チ、其ノ土ヲ貧ラズシテ以テ王ノ爵ヲ勞ウハ、正ノ禮也」と評した、と『春秋左氏伝』は言うわけです。

 完全な見当違いです。『春秋左氏伝』の史料としての価値については、一般評価よりはるかに高い価値を持っている、と私は考えていますが。このようなコメントの部分には、真面目に論じる気にもなれないくらい、粗雑な面が多い。
 ここでいう君子とは、誰のことか知りませんが、左丘明の時代にすでにこの程度の考えしかないのですから、春秋初期の歴史が不明になるのも当然なわけです。

 鄭は父武公の代から、勝手に「王命」という大義名分をかかげて、他国の領土を強奪してきたのです。中原諸国は「王命」には反駁できないが、内心ではこれは鄭伯の狡猾な策略だ、と感じていたのです。
平王の時代は、王は鄭伯の言うがままになっていたから、鄭伯の手口は通用しましたが、桓王になると、とうとうシッポを出した。気がつくと鄭のまわり、中原一帯の諸侯はすべて鄭に敵意を抱いていました。しかし鄭莊公は反省して奪った領土を返そう、というような考えは毛頭ありません。
 自分一人で甘い汁を吸ってきたのが拙かった。他人にも多少のオコボレを与えて、味方をつくる必要がある、と考えました。宋を伐って、「コウ」や「防」という邑を奪い、新しく子分にしようとする魯公に与えたのです。
 判りやすく譬えれば、強盗の親分が新入りの子分に、気前よく分け前をくれてやって、今後しっかり働けと言い聞かせたわけです。
           
 続いて「蔡人・衛人・セイ人、王命ニ會セズ。秋、七月庚寅、鄭ノ師、郊ニ入リ、猶オ郊ニ在リ。宋人・衛人、鄭ニ入ル。蔡人、之ニ従イ戴ヲ伐ツ。八月壬戌、鄭伯、戴ヲ圍ミ、癸亥、之ニ克チ、其ノ三師ヲ取ル。宋・衛・既ニ鄭ニ入リテ、戴ヲ伐ツヲ以テ蔡人ヲ召ス。蔡人怒ル、故ニ和セズシテ敗ル。九月戊寅、鄭伯、宋ニ入ル。冬、齊人・鄭人、セイ、ニ入ルハ、王命ニ違ウヲ討ズ也」とあります。


 「蔡人・衛人・セイ人、王命ニ會セズ」とは、中原の諸国には、鄭公の発する「王命」はペテンだと知れ渡っていたのです。だからこれらの国は、反対に宋に味方しました。
「七月庚寅、鄭ノ師、郊ニ入リ、猶オ郊ニ在リ」というから、鄭軍が郊を落としてそこに留まっている間に。
「宋人・衛人、鄭ニ入ル。蔡人、之ニ従イ戴ヲ伐ツ」

と、宋・衛・蔡、の軍隊は、鄭国に攻め入ったのです。しかし鄭軍も機敏でした。直ちに宋から引き返して戴の地で、宋・衛・蔡、の連合軍を包囲攻撃して、それを捕虜にしました。

 『春秋左氏伝』には、宋や衛と、蔡との間に不和があり、その為に敗れたようにコメントしていますが。そうではなく、鄭のほうが一枚も二枚も上だったのです。
 鄭莊公は悪知恵の塊のような男でしたが、狡猾なだけに戦争には機敏でした。


       鄭莊公の野望 


その翌年、隠公十一年の経文に「夏、公、鄭伯ニ時來ニ會ス。秋七月壬午、公、齊侯・鄭伯ト許ニ入ル」とあり。
 伝文に、「夏、公、鄭伯、ライ、ニ會スルハ、許ヲ伐タンコトヲ謀ル也。鄭伯、將ニ許ヲ伐タントス」「秋、七月、公、齊侯・鄭伯ト會シテ許ヲ伐ツ。庚辰、許ニ傅ク。穎考叔、鄭伯ノ旗ボウ弧、ヲ取リテ以テ先登ス。子都、下自リ之ヲ射ル。顛ル。瑕叔盈、又、ボウ弧ヲ以テ登ル。周ク麾キテ曰ク『君、登レリ』ト。鄭ノ師、畢ク登ル。壬午、遂ニ許ニ入ル。許ノ莊公、衛ニ奔ル。齊侯、許ヲ以テ公ニ讓ル。
公曰ク『君、許ヲ不共ト謂ウ。故ニ君ニ從テ之ヲ討ツ。許、既ニ其ノ罪ニ伏ス。君命有リト雖モ寡人敢テ與リ聞カズ』ト。乃チ鄭人ニ與ウ」とあります。

 夏に魯公と鄭伯は、ライ(時來)の地で會い、許国を攻めることを相談した。七月壬午の日に鄭・齊・魯の三国同盟軍は許城に攻め入った。伝文から推すと許都は相当大規模な城壁をもった大城であったことがうかがえます。(許は紀国と同じ姜姓です。)
 また伝文には、齊侯と魯公が譲りあって鄭に与えたような事を述べていますが、これは見当違い。許国は「コウ」とか「防」というような邑とは、桁ちがいの大国でした。鄭は以前から許国に目をつけていたのであろうと思われます。

 例えば、この年より三年前の隠公八年の経文に「三月、鄭伯、宛ヲシテ來リテ、ホウ、ヲ歸ラシム。庚寅、我、ホウ、ニ入ル」伝文「鄭伯、泰山ノ祀ヲ釋テテ周公ヲ祀リ、泰山ノ、ホウ、ヲ以テ許ノ田ニ易エント請ウ。三月、鄭伯、宛ヲシテ來リテ、ホウ、ヲ歸ラシムトハ、泰山ヲ祀ラザレバ也」

という記事があります。これは高校の歴史教科書にも出てくる事件ですが。一般には次のように解釈されています。
 鄭国は泰山の祭祀用に、山東省費県の東南に「ホウ」という邑を持っていた。また魯国は周都への参覲用に、許国の近くに田地を持っていた。この両者を交換したいと鄭莊公より申入れがあり、この年の三月に鄭伯の家臣である宛が来て、「ホウ」邑を贈った。というのが通説です。

 しかしこれは後になって発生した見当違いの伝釈でしょう。泰山の祭祀は、西周王朝時代には最も権威のある祭祀でした。

『禮記』王制篇に、「天子ハ五年ニ一タビ巡守ス。歳ノ二月、東ニ巡守シテ岱宗(泰山)ニ至リ、柴ヲヤキ山川ヲ望祀シ、諸侯ヲ覲シ、百年ノ者ヲ問イ、就イテ之ヲ見ル。大師ニ命ジテ詩ヲ陳ベ、以テ民ノ風ヲ觀、市ニ命ジ賈ヲ納メ、以テ民ノ好悪スル所ヲ觀ル。志淫スレバ好ミ辟トナル。典禮ニ命ジ時月ヲ考エ日ヲ定ム。律・禮・樂・制度・衣服ヲ同ジクシテ之ヲ正ス。山川ノ神祗擧デザル有ル者ハ不敬ト為シ、不敬ナル者ハ君削ルニ地ヲ以テス。宗廟順ハザル有ル者ハ不孝ト為シ、不孝ナル者ハ、君、カクルニ爵ヲ以テス。禮ヲ變ジ樂ヲ易ウル者ハ不從ト為シ、不從ナル者ハ君討ツ。民ニ功徳有ル者ハ地ヲ加エ律ヲ進ム」

 というような記事があります。五年に一度、天子が西の端の宗周から東の端の泰山まで赴いて、自らお祀りする重要な祭祀でありました。新興国の鄭がその祭祀権を持っているわけがないのです。

 泰山の祀りは、周王朝成立以前の殷帝国の時代から、すでに重要な祭祀とされていました。当時は祭政一致の社会です。西周王朝は山東地方で最も重要な祭祀である、この泰山の祭祀を天子自ら主宰することにより、山東地方の全権力を周王が握っていることを、天下に示したのでしょう。
 
 その泰山の祭祀権を譲り受けることが出来たならば、魯国の格式を一段とあげるに違いない、と魯の隠公は憧れていたのです。
鄭莊公は、魯公の望みを知り「泰山の祀の祭主の座を、周王から貴方に譲るよう、私が骨折りましょう。その代わり、許国の田地を私のほうへ譲ってもらいたい、と思っていますので、そのときには貴国も骨折って下さい。」と持ちかけたのでしょう。
 まず、恩を売って貸しをつくっておこう、とこの年に泰山の「ホウ」を魯に贈った。(おそらく周王には無断で)そういうわけで隠公十一年にはそのツケが廻ってきて、鄭伯の許国攻めに、魯公は齊侯と共にお供しなければならなくなった。おまけに前年の宋国攻めの御褒美として「コク」とか「防」という邑を頂いているから、否も応もなかった。

 こうして魯軍や齊軍を引き連れた鄭莊公は許城を攻め落とし、念願の許国を手に入れたわけです。許国は中原で最も豊かな農業国でしたから、鄭は今後、食料で困ることはない、と安心しました。
 このように鄭莊公は、ずば抜けた力量を持っていましたから。当時の諸侯とは役者がちがって、ほとんどの諸侯は、子供のようにあしらわれました。

 しかし朝廷の内部では、鄭莊公の思うようには行かなかった。周桓王は祖父の平王とちがって、なかなか英邁な君主であったから、流石の鄭莊公もたじたじでした。
 
 同じくこの年(隠公十一年)の伝文に「王、ヲ・劉・イ・ウ、ノ田ヲ鄭ヨリ取リ、鄭人ニ蘇忿生ノ田、 温・原・チ・樊・隰セイ・攅茅・向・盟・州・ケイ・タイ・懷ヲ與ウ」という記事があり。

例によって、「君子、是ヲ以テ、桓王ノ鄭ヲ失ハンコトヲ知ル。『恕ニシテ之ヲ行ウハ、徳ノ則也、禮ノ經也。己有ツコト能ハズシテ以テ人ニ與ウ。人ノ至ラザルコト、亦宜ナラズヤ』ト」と見当違いのコメントを加えています。

 左丘明か誰かは知らないが、このようなコメントをするぐらいだから、如何なる事情であったか既に判らなかったのでしょうが。この数年後、王師すなわち周王朝の軍隊の指揮権が、桓王の手に戻っているから。桓王と鄭莊公が東周王朝の内部で、軍事と行政の実権をめぐって激しい綱引きがあったのでしょう。

 結局、鄭莊公のほうが次第に譲歩を余儀なくされたのでしょうが。その間に田地の交換があったわけです。強大になり過ぎた鄭の勢力を切り崩そうと、桓王はいろいろと手をつくしたのです。

しかしその直後「冬、十月、鄭伯、カク、ノ師ヲ以テ宋ヲ伐チ、壬戌、大イニ宋ノ師ヲ敗ル」とありますから、鄭伯は二卿士制を逆手にとって、右卿士であるカク公の軍隊を使って、宋軍を敗った、のです。
 まさに煮ても焼いても食えない人物でした。

 鄭を周王室東遷の功労者とするのは、まったくの見当違いだが。鄭武公・莊公父子には一種の「悪の魅力」を感じる人は多いのではなかろうか。親分を裏切ってマフィアの大ボスにのし上がる、ギャング映画の主人公のような「悪の魅力」を感じるのではなかろうか。とにかくこの父子は、中国史に於ける陰謀の元祖と云うべき人物でした。

 無気力の平王が在世中は、「王ノ卿士」の地位を悪用して、強引に私腹を肥やした。平王が崩じ若い桓王が立つや、東周王朝の実権が鄭伯の手にあることを誇示するために、王領の農地を荒らして威嚇した。それが中原諸国の反感を買い、連合した攻撃を受けると、こんどは連合諸国を離間すべく策を用いた。
 桓王が反鄭派のカク公を「王ノ卿士」に登用しようとする決意が固いことを知ると、一歩退いて二卿士制に甘んじるふりをした。そうしておいて、そのカク公の軍隊を利用して、自分の仇敵である宋を伐ったのです。


 その二年後、『春秋左氏伝』桓公二年の経文に
 「春、王ノ正月戊申、宋ノ督、其ノ君與夷ヲ弑シ其ノ大夫孔父ニ及ブ」「三月、公、齊侯・陳侯・鄭伯ニ稷ニ會シ、以テ宋ノ亂ヲ成グ。夏、四月、コウ、ノ大鼎ヲ宋ヨリ取リ、戊申、大廟ニ納ル」

伝文に「二年、春、宋ノ督、孔氏ヲ攻メ、孔父ヲ殺シテ其ノ妻ヲ取ル。公怒ル。督懼レ、遂ニ殤公ヲ弑ス」「稷ニ會シ以テ宋ノ亂ヲ成グトハ、賂ノ為ノ故ニ華氏ヲ立ツ也。宋ノ殤公立チテ十年、十一戦ス。民、命ニ堪エズ。孔父嘉司馬為リ。督大宰為リ。故ニ民ノ命ニ堪エザルニ因テ、先ズ宣言シテ曰ク『司馬則チ然ラシム』ト。已ニ孔父ヲ殺シテ殤公ヲ弑シ、莊公ヲ鄭ヨリ召シテ之ヲ立テ、以テ鄭ニ親シミ、コウ、ノ大鼎ヲ以テ公ニ賂シ、齊・陳・鄭皆賂有リ。故ニ遂ニ宋公ヲ相ク」とあります。

 当時の宋国には、義を尊ぶ国風があったのでしょう。殤公が先君、穆公の後を継ぐいきさつが『春秋左氏伝』隠公三年の伝文にありますが、それからも推測されます。
 殤公が立つや、衛の州吁の建言を納れ、連合軍を組織して鄭を伐った。以後十年間に十一戦したという。しかし鄭莊公の老獪な策略のために孤立させられ、袋叩きにあった。「民、命ニ堪エズ」というのですから、国民も疲れはてたのです。

 宋国の司馬(軍事の長官)は孔父嘉(孔子の先祖)であり、大宰(行政の長官)は華父督でした。
 孔父嘉の妻が大変な美人であったが、それを見初めた督は、孔父嘉を殺してその妻を奪おうと下心を抱いた。まず、「民、命ニ堪エズ」という状態になったのは、司馬の責任だ、孔父嘉こそ戦犯だ、と宣言した。そのうえで孔父嘉を殺し、その妻をうばった。さらに殤公を弑して、殤公の従兄弟で当時鄭にいた公子馮を呼び戻して之を立て、宋の莊公とした。と『春秋左氏伝』は伝えるのです。

 要するに宋は、重なる敗戦の結果、内紛が起こり、国君が殺されて、新しい国君のもとで鄭国側に降伏したわけです。
 経文に「夏、四月、コウ大鼎ヲ宋ヨリ取リ、戊申、大廟ニ納ル」

とある点から考えると、これが魯国から、宋国へ突きつけた和平条件だったのでしょう。すなわち三年前、隠公十年に、魯国は齊国と共に鄭伯に従って宋国に攻め入った。
そのときの伝文に「六月戊申、公、齊侯・鄭伯ニ老桃ニ會ス。壬戌、公、宋ノ師ヲ菅ニ敗ル。庚午、鄭ノ師、コウ、ニ入ル。辛未、我ニ歸ル。庚辰、鄭ノ師、防ニ入ル。辛巳、我ニ歸ル」

とあるけれども。これは、鄭・齊・魯の軍隊が武力を用いて「コウ」や「防」を強奪しただけのことで、このような無法は、周王室が健在であれば、厳しく罰せられたに違いありません。
 奪われた宋国側も、そのような無法行為を承服するわけがなく、必ず取り返してやると誓っていたに違いない。
 コウ大鼎とは、ちょうど我が国の銅鐸と同じで、コウ邑を開拓したときからコウ邑民の信仰の象徴として鎮守の社に祭られていたものでしょう。コウ邑が鄭・齊・魯らの軍隊の攻撃をうけ、落城するときに、決死隊がこのコウ大鼎を奉持して脱出して来ていたのです。

 だから魯は、宋の降伏を受け入れるときに、今後、コウ邑や防邑は永久に魯に領土権があることを認めろ、と要求したに違いなありません。宋は泣く泣くその要求を飲み、コウ邑の領土権の象徴であるコウ大鼎を、魯に引き渡したのです。
 「齊・陳・鄭皆賂有リ」というから、魯以外の各国にも賠償を支払い、ようやく滅亡を免れました。宋の降伏により、中原地方は、一時小康状態を保つことになる。だが地方にも戦乱は飛び火していました。


 翌桓公三年(BC709年)の『春秋左氏伝』に、「三年、春、曲沃ノ武公、翼ヲ伐チ、ケイ庭ニ次ル。韓萬、戎ニ御トナリ、梁弘、右為リ、翼侯ヲ汾隰ニ遂ウ。驂サワ、リテ止ル。夜之ヲ獲、欒共叔ニ及ブ」とある。

 晉国でも下克上が進んでいたのです。分家である曲沃の武公が、本家である翼の哀侯を攻撃した。汾河のほとりの湿地帯を追い回し、夜になって捕らえ虜にしたのです。

 ここを『史記』晉世家に見れば、
「哀侯八年、晉、ケイ廷ヲ侵ス。ケイ廷、曲沃ノ武公ト謀ル。九年、晉ヲ汾ノホトリ、ニ伐チ、哀侯ヲ虜ニス。晉人乃チ哀侯ノ子、小子ヲ立テテ君ト為ス。是ヲ小子侯ト為ス。小子元年、曲沃ノ武公、韓萬ヲシテ虜ニスル所ノ晉ノ哀侯ヲ殺サシム。曲沃益々彊シ。晉、之ヲ如何トモスル無シ。晉ノ小子ノ四年、曲沃ノ武公、誘イテ晉ノ小子ヲ召シ之ヲ殺ス。周ノ桓王、カク仲ヲシテ曲沃ノ武公ヲ伐タシム。武公、曲沃ニ入ル。乃チ晉ノ哀侯ノ弟緡ヲ立テテ晉侯ト為ス」とあります。

 哀侯を虜にした曲沃は、「オレに晉侯の座を譲って翼はオレの臣下になれ、でなければ哀侯を殺すぞ」と脅したのです。だが本家側は断固としてそれを拒絶した。そして哀侯の子、小子を国君としたのです。
 曲沃側は哀侯を殺し、さらにその四年後に小子も誘き寄せて殺した。「小子」とは幼少で諡がなかったからだろう、と推測されています。まことに残酷な話です。だがこのときカク公の討伐をうけて、曲沃に逃げ帰っているところを見ると、晉はまだ大国という域には達していなかったのでしょう。

 さて、曲沃が本家の乗っ取りを企て始めたのは『史記』によれば、晉昭侯七年(BC739年)です。おそらく、これは鄭莊公の煽動によるのでしょう。
 少なくとも、BC718年、すなわち『史記』晉世家「(晉)鄂侯ハ六年ニ卒ス。曲沃ノ莊伯ハ、晉ノ鄂侯卒スト聞クヤ、乃チ兵ヲ興シテ晉ヲ伐ツ。周平王、カク公ヲ兵ニ將トシテ曲沃ノ莊伯ヲ伐タシム、莊伯走リテ曲沃ヲ保ツ」
とある事件は、鄭莊公の煽動によったものに違いありません。

 これは『春秋左氏伝』隠公五年にあたるわけですが、
伝文、春の条に「曲沃ノ莊伯、鄭人・ケイ人ヲ以テ翼ヲ伐ツ。王、尹氏・武氏ヲシテ之ヲ助ケシム。翼侯、隨ニ奔ル」
とありますから、このとき鄭は莊公自身は出なかったが、部下の軍を曲沃に貸したのです。
 それに対して王側は(史記の平王との記事は誤り、このときは桓王である)尹氏・武氏を派遣して本家側を応援したが、本家側が敗れて、隨へ逃げたわけだ。
 更に伝文に「曲沃、王ニ叛ク。秋、王、カク公ニ命ジテ曲沃ヲ伐タシメ、哀侯ヲ翼ニ立ツ」とある。
王は秋になって、更にカク公に命じて出兵し、晋国の都、翼を取り返し、哀公を晋国の君主としたのです。晉国内の簒奪行動に対して、鄭莊公は常に分家側の曲沃に支援活動を行い、周王は本家側を支援していたのは間違いありません。


当時の鄭莊公の行動を総合的に見れば、東周王朝の簒奪を狙っていたと思われます。単に中原地方での、ささやかな領土拡張が望みであったとすれば、どうしてもツジツマが合わないことが多いのです。
 まず黄河の北、現在の山西省では、いま見たように晉国の分家である曲沃伯の簒奪行為を、盛んに煽動しました。
(春秋中期以後の超大国となってくる「晉国」は、この本家を簒奪した分家が大きくなったものです。)

 南方では、楚国の侵略を抑える要衝である申国、鄭国の大恩人でもある申国の孤立化、弱体化を図りますた。
 申国の本国は前にみたように「河洛の間」でありましたが、こちらは平王を東へ迎え入れたときに、周王室に提供していたのでしょう。

周の平王は、陝西省の宗周から河南省の洛邑へ移遷してくるに際しても、「申侯」の付庸國であった「秦」に護られてきたくらいですから、親衛隊も持っていなかったのです。もちろん自前の農園もなく、ほとんど無一物の状態で移遷してきましたから、王としての体面を維持するために、「申」と「呂(甫)」は本国領を、そっくり提供したのでしょう。
従って、「申」と「呂(甫)」の軍隊が周平王の軍隊すなわち「王師」となり、「申」と「呂(甫)」の農地が即、王の農園となって、東周王朝の人々を養うことになったのでしょう。

もちろん、「周王室」はいずれ陜西の王幾を回復して帰るつもりですから、一時的な仮の都として「河洛の地」に洛邑城を定めたわけです。

ですから「申侯」達も、「周王室」が陝西省へ帰れば、「申」と「呂」も「河洛の地」の地へ戻ってくるつもりで、一時的の仮の住まいとして、分国である「謝」(南陽市)に祭祀を遷したわけです。(南陽市の北と西に「申城」と「呂城」の跡があるという。)「謝」には宣王の時代に召伯虎が築城した「謝城」があり、申侯の領土となっていました。

おそらく「申侯」らの心づもりでは、十年もすれば周王朝は西の陝西省へ復帰出来る。と考えていたのでしょうが、「東周王朝」がその地に居座ることになったために、「申」と「呂(甫)」両国は弱小国に転落してしまったのでしょう。
西周時代に最大の有力国で、大活躍していた「申」と「呂」が、東周になり、「申侯」の孫である平王が天子であるにも関わらず、ほとんど活躍することがないのは、そのような理由でしょう。

さて「申」と「呂(甫)」両国に、残されている領土は「謝」だけとなりました。
しかし当時の南方は、平穏無事でした。召伯虎の討伐をうけた楚国は、殆ど滅亡状態に陥いっていましたから、他国を侵略したくとも、する力などは無かったのです。ですから「申」もそれには、あまり心配する必要もなかったのです。
 しかし、BC740年に楚武王が立ちました。その元年は、すなわち周平王の三十一年であり。鄭莊公の四年にあたります。
 王と称しだしたのは「おれは周王朝の配下ではない。独立した国だ」ということでしょう。楚は武王が国君になってから、侵略をまた始めだしたのでしょう。

謝城の「申」は、宣王の時代から南方対策の中心であります。当然、楚の侵略行為を制止しなければならないわけです。しかし周王室の東遷を迎えたときに、本領土は周王室に提供していましたから、それに付随する人民も軍隊も周王室に提供していたわけです。
 従って申国に残された人的資源は激減しているわけで、一国で楚に対抗できる兵力は残っていなかったのです。当然、東周王朝に援軍を要請したに違いありません。
しかし東周王朝の横領、簒奪を狙っていた鄭伯にとって、申国(申侯の息子の代でしょう)は「目の上のこぶ」のような煙たい存在でした。だから援軍を出すのを、いろいろな理由をつけて渋ったのです。

 『詩経』王風、揚之水、は申国を救援に行った兵士が妻子を偲ぶ厭戦の詩だ。とか、『詩経』「王風揚之水」は周の平王を刺るなり 。というような注釈もありますが。
いずれも、当時の歴史を見ない見当違いの注釈です。


          『詩経』王風、揚之水 

揚之水   不流束薪  揚たる水は、   束薪を流さず
彼其之子   不與我戍申 彼の之の子は   我と申を戍らず
懐哉懐哉  曷月予還歸哉  懐う哉、懐う哉  曷れの月か予還歸せん
揚之水    不流束楚 揚たる水は、   束楚を流さず
彼其之子    不與我戍甫  彼の之の子は   我と甫を戍らず
懐哉懐哉    曷月予還歸哉 懐う哉、懐う哉  曷れの月か予還歸せん
揚之水   不流束蒲 揚たる水は、   束蒲を流さず
彼其之子   不與我戍許  彼の之の子は   我と許を戍らず
懐哉懐哉  曷月予還歸哉 懐う哉、懐う哉  曷れの月か予還歸せん

これから考えると、「我と申と甫と許」を、彼其之子は守らない。と訴えているわけです。
「申と甫(呂)」は現南陽市ですが、「許」は現許昌市です。かなり距離があります。この三者を守らない、護るべき義務を果たさない。と非難されている「彼其之子 」とは、「王師」すなわち東周王朝の軍隊、を支配している「王の卿士」である「鄭莊公」でなければ、ツジツマが合いません。
「許」については守らないどころか、前にも述べましたように、『春秋左氏伝』隠公十一年の経文に「夏、公、鄭伯ニ時來ニ會ス。秋七月壬午、公、齊侯・鄭伯ト許ニ入ル」とあるように、「鄭候」は「斉候」や「魯公」をお供に引き連れて「許国」を攻撃してその国を奪い取り、我が物にしています。

西周時代には、この「申と甫(呂)」は中原地方の強国でした。 『国語・鄭語』にも「申呂方ニ彊ク」とあります。
その強国が春秋時代に入った途端、弱小国に転落しているのです。

 申侯は、言うまでもなく平王擁立の大功労者であります。また平王の母は申侯家の出であります。中国史を見ても、少なくとも平王の時代は、王の外戚として、権勢を誇っているのが通例でしょう。
 申侯の一族、娘の婿である鄭伯は「王ノ卿士」という最高の権勢をほこる地位にあり、さらにその子が「王ノ卿士」を継いで、東周王朝の権力を独占しているのです。しかもその権力を悪用して、王の軍隊を用いて私領の拡張を行っているのです。
その同じ時期に、平王擁立の大功労者である申侯の本家が、滅亡寸前の状態に陥っていたのです。
 以上を総合して考えますと、申国の弱体化を鄭伯は意図的に図ったに違いないでしょう。
 鄭は楚の侵略を、直接に煽動することはできなかったでしょう。しかし陰に陽に楚の侵略を助長したのに違いありません。

 『春秋左氏伝』隠公十一年(BC712年)の伝文に、「鄭ト息ト違言有リ。息侯、鄭ヲ伐ツ。鄭伯、與ニ竟ニ戦ウ。息ノ師、大イニ敗レテ還ル。君子、是ヲ以テ、息ノ將ニ亡ビントスルヲ知ル。徳ヲ度ラズ力ヲ量ラズ、親ヲ親シマズ、辭ヲ徴セズ、有罪ヲ察セズ、五ノ不イ、ヲ犯シテ以テ人ヲ伐ツ。其ノ師ヲ喪ウヤ、亦宜ナラズヤ」

 という記事があります。君子以下の文は例によって、見当違いのコメントですが。「約束を破った」と息侯が軍隊を出すほど怒ったのは、よほど重要な約束であったわけです。前後の状況から推測しますと、楚に対する戦争に関係したことでしょう。おそらく援軍を出す約束ができていたものを、鄭伯が破ったのでしょう。その為に、勝てる戦いが敗戦となり、部下を多く失った息侯が怒り心頭に発して「王ノ卿士」である鄭伯に攻め入ったが敗れたわけです。

 「息」は現在の河南省息県ですが、「謝」現南陽市と共に楚に対する防衛の要衝であったようです。これより百年ばかり後になりますと、「申・息の師」と呼ばれる軍隊が、楚の先鋒として中原へしばしば攻め込みますが、これは「楚国」に併呑された「申」と「息」の末裔でしょう。
 「申」と「息」が弱体化したために、中原諸国はたちまち楚の脅威を感じるようになりました。その二年後、『春秋左氏伝』桓公2年(BC710年)の経文に「(秋、七月、)蔡侯・鄭伯、ケニ會ス」とあり。伝文に、「蔡侯・鄭伯、ケニ會スルハ、始メテ楚ヲ懼ルルナリ」とあります。

 しかし鄭莊公は、楚を手懐けることが出来ると考えていたようです。莊公の考えは、楚を破るより申が滅亡してくれるほうが、有難いのです。
おそらく「鄭の荘公」は、「周王朝」を簒奪した暁には、北の「晋」も、西の「秦」も、南の「楚」も手懐けて、自分の有力な与国にするつもり、であったのでしょう。


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